【映画】シャンタル・アケルマン『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)

1 平凡な家事を淡々と長回しで撮る。そんな200分。

ベルギー、ブリュッセルのアパートメント。教師のように身なりのきちんとした、40代の女性がキッチンにいる。鍋を火にかけたり、ゆでた野菜の水を切ったり、料理中のようだ。旧式のガスコンロは、点火のたびにマッチを擦る必要がある。そんな生活の所作のひとつひとつを、固定カメラがノーカットでじっと追う。
毎日繰り返されたルーティーンなのだろう。ジャンヌの動作にはいささかも迷いがなく、片時も家事を休まない。けれども、観ていると冗長さにあくびが湧いてくる。
使った皿を洗う。カトラリーを引き出しに仕舞う。脱いだ服をたたむ。ジャンヌは人間が生きるうえでいやおうなく発生する汚れや散らかりを、秩序ある状態に戻していく。それはマイナスをゼロにする労働であり、完璧にやり遂げても褒められず、やり残しがあれば咎められる。いいことは何もないにもかかわらず、かならず誰かが担わなくてはならない。
かつて、カメラが向けることのなかった主婦の些末で膨大な仕事を、このフィルムは延々と客席へ放射し続ける。


2 現代美術における、ビデオアートとの親和性。

映画にドラマ性を重視する観客なら、開始30分で椅子を蹴って出て行くだろう。セリフらしいセリフもなく、ひたすら中年女性の孤独な日常生活を映しているだけ。物語がまったく始まらず、ただただ退屈なのだから。
とはいえ、私はこの冗漫さに耐性がある。「◯◯ビエンナーレ」「✕✕トリエンナーレ」といった現代美術展でときどき出くわす、ビデオアートに似ているのだ。現代美術のビデオアートは、なぜかは知らないが、あまり変化のない繰り返しの動作を延々と撮ったものが多い。つまらなさは織り込み済み、がこうした芸術作品を鑑賞する時の基本的な心構えだ。
ビデオアートは、作品がおもしろいつまらないというよりも、「なぜこれを敢えて撮るのか」、つまり被写体よりも撮る主体のほうにメッセージが込められていたりする。『ジャンヌ・ディエルマン』も、前衛美術家アケルマンのビデオアートだととらえると、その政治性、パフォーマンス性が伝わってくる。
そのひとつが、前章で触れた、家事労働の過小評価である。


3 時間の積み重ねから浮かび上がる、日常のほつれ。

3時間20分に及ぶ本作は3部構成になっている。すなわち、1日目、2日目、3日目だ。
1日目は最も退屈で、平穏無事に過ぎ去る。だが2日目、3日目と時が経つにつれ、予定の用事を済ませられなかったり、料理を失敗したりと、不慮のトラブルが増えていく。
何かおかしいぞ。そう観客に気づかせるのは、1日目の「なにも起きない時間」を長々と撮っていたからこそだ。ルーティーンがうまく運ばないことで、秩序を重んじるジャンヌの精神が、徐々にバランスを崩していくのが理解できる。
退屈な日常は、それが失われて初めて価値に気づくのかもしれない。
1日目は常になにかしら家事をこなしていたジャンヌだが、3日目になると、何もせず物思いにふける時間が増えてくる。

※ここからはストーリーの根幹に関わる重大なネタバレを含むので、自己責任でお読みください。


4 男が来訪し、去るあいだのジャンプショット。

些末な家事のひとつひとつを延々と映す映画なのに、大胆に時間を省略する場面がいくつかある。
実は、ジャンヌは自宅で売春をしている。映画が始まってすぐ、白髪の老人がアパートを訪れ、帽子とコートをジャンヌが受け取る印象的なカットがある。なぜ印象的かといえば、ジャンヌの首から上が見切れた不自然な構図になっているからだ。
この時ジャンヌは顔=個性、人格を失い、ただの物、商品としての女になっているという意味だろう。
ジャンヌは廊下を歩いて男と共に奥の寝室に入り、扉が閉められる。そして次の瞬間画面が薄暗くなり、廊下の奥からジャンヌが進み出てくる。彼女は帽子とコートを男に渡し、金を受け取る。

ジャンヌのベッドシーンがカットされた訳は、普通に考えれば、刺激の強いシーンであり、見せなくても観客は理解できるからだ。ところが、全編を見終わった今では、違う考えが湧いてくる。
おそらくジャンヌは、行為のあいだ、意識を閉ざした状態にあるからではないだろうか。


5 ジャンヌはなぜ壊れたか。(私の考えた物語)

3日目、初めてベッドシーンが映る。ジャンヌが男にのしかかられている。当初は平然としているのだが、途中から様子がおかしくなる。苦しそうな表情になり、シーツに顔を隠そうとする。
顔を見せないことで、烈しい感情の嵐が彼女の中に荒れ狂っているのがわかる。

この感情に何と名前をつけるべきか。そうだ。ジャンヌは恥辱に襲われている。

今までは心を殺すことで耐えてきた、望まぬ性行為が、突然耐えられなくなった。それはじゃがいもを茹で損なったから?カフェの指定席に先客がいたから?大事な服のボタンを紛失したから?
どれでもない。彼女の中に、ずっと恥辱はあったのだ。

高校生の息子に、亡くなった夫との馴れ初めを訊かれ、ジャンヌは答える。1944年、解放軍がやって来て戦争は終わった。あなたのお父さんは醜男で、事業にも失敗したけれど結婚した。
なぜ醜男と?と息子に問われると、顔なんてどうでもいいわ、とジャンヌ。
私は想像する。ジャンヌは戦争中に性犯罪に遭ったのかもしれない。その時に、行為と心を切り離して自分を守ることを覚えた。夫との行為も、だからどうでもよかった。とにかく誰かと結婚して、過去を忘れたかった。
映画の時代設定は1960年代だろうか。人々の中にはいまだ戦争の記憶があり、戦後生まれの息子とはわかり合えない断絶がある。単調な生活という漆喰で、厚く壁に塗り込めようとした恥辱の記憶は、けれど消えることはなく、些細なきっかけでよみがえり、ジャンヌを蝕み、苦しめる。


6 リアリズムと不自然さのあいだで。

心理描写を排し、距離を保った固定カメラで対象をとらえたアケルマンの演出は、ドキュメンタリー調だといえるかもしれない。その反面、リアリティの無さも強く感じる。
例えば面白いのは、息子のベッドだ。ダイニングルームの一角に置かれた一人掛けの安楽椅子を伸ばすと、ベッドに変わるのだ。そして朝になり、息子のベッドを椅子に戻してしまうと、このアパートに、彼のいた痕跡は何もなくなる。
実際に高校生の息子が同居していて、彼の私物がなにもないということはありえないので、このあたりは非常に不自然というか、フィクショナルだと思う。
息子が不在のあいだ、息子のことを思い出させるものがないという設定は、監督にとって重要だったのではないだろうか。つまり、息子への気まずさを感じずに売春ができるから。

主演のデルフィーヌ・セイリグの誇り高い美しさはまさに女優然としており、平凡な主婦のリアリティはまったくない。それでも、このアパートに住んで数十年、ずっと規則正しい生活を送っている、と見せる演技力はすばらしかった。
なかでも、真横からの固定カメラでとらえた長い長い入浴シーンは記憶に残る。女優らしい美しいヌードなのに、まるで洗車のように色気もへったくれもない。さまざまな映画で女性の入浴シーンを観たが、入浴後に浴槽を洗うのは初めて観た。実にジャンヌらしい。
堅固に見えた彼女の、実は脆かった勁(つよ)さが、胸を離れない。

※別のかたのレビューで、アケルマン監督が2日目以降ジャンヌが精神のバランスを崩していく理由を明かしていることを知りました。それは私の想像とはまったく違っていたけれど、監督は作中ではっきり示しているわけではないし、こう思った人もいるよということで、本記事は修正せず書いておきます。

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