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走り書き日記(数日ごとに更新中)

(彼女は、まるで足に小さな翼を持っているように歩いた)

2023/11/26

●ここしばらく、日記を書く隙のない慌しさでしばらく間があいてしまい、そうこうしているうちに不思議な散文投稿サイト(しずかなインターネット)ができていたので、走り書き日記のリアルタイム更新はこちらに移管します。

2023/10/23

●ここしばらく、日記を書く隙のない忙しさだった。いくらかのテキストを書き、いくらかのイベントをし、いくらかの制作をし、だいぶいろいろテキストを読んだ。とくにル・クレジオをあれこれ。

2023/10/22

●朝から、結構ひどい頭痛。イブDXを読むとなにかが強すぎたのか、ひととき吐き気をもよおす。洗面台にたらたらと大量のきれいな唾液がながれていくのをながめる。たまに思うことだけど唾液腺というのは結構パワフルな器官である。●寝たり起きたりしながら遅れていた原稿を書き終え、送る。

2023/10/21

●午後いっぱい、「プレイの(文)体を練習する」のテストプレイ会を浅草橋のうそのたばこ店でおこなう。かなり頭をつかってたいへんだったけど充実していた。終わってからみんなでおいしいタイ料理をたべた。●夜、オペラ制作の読書会。泣いた赤鬼の日本語オペラなどについて話したのだけど、それにしても赤鬼ってなんて愚かなんだろう、と思ってしまった(演出のせいかもしれない)。●驚くべきことに、わたしは泣いた赤鬼のオチを忘れていた。だから、最後、青鬼が村人に恨まれめったぎりにされて命を落とすのかなと思っていたが、そんなことはなく、一人旅に出るだけだった。赤鬼の犯した罪の重さにくらべて青鬼の不幸がなんとも中途半端だなと思ってしまった。●朗読会を企画したい、という話をそっとはじめている。

2023/10/19

●種村季弘のエッセイが、たまに物語調でなお面白い。20代のいっときお金があまったので都内4拠点生活をしてたらへんなひとに絡まれまくった、というのが書物遊覧記に書かれていて、なんか羽振りがよくていいなあと思った。当時つとめていた出版社が儲かっていたらしい。●わたしは毎日お金のなさに打ちひしがれているので、どちらかというと森茉莉の根性で生き延びないといけない。お金になる原稿を書ける見込みがない。。●昼間、部屋の窓をあけて、アロエに風をあてながら仕事をしていた。束の間の秋晴れの日。

2023/10/18

●読まないといけないものが多すぎて、生活が本の読みやすさに支配されている。ファストフード店はなぜか読書がはかどるのだけど(人目を気にしなくていいからだと思う)、ファストフードを食べたくなさすぎてしょんぼりする。●暇がなさすぎてげんなりしてきたら、チャーリーとチョコレート工場のウィリーウォンカのウェルカムソングを大音量で聴いている。途方もなくチープでゆたかでかわいくて狂ってて最高の音楽。映画では、この音楽にあわせてウィリーウォンカ特製の蝋人形たちがにこにこと踊るのだが、ヒートアップして火花を吹き、かわいい蝋人形たちがどろどろに焦げて燃える。すっごい怖いのだけど、ちょっと恍惚とする。

2023/10/9

●別の日記にことの詳細を書いたけれど、アロエの鉢をもらい、それを携えたまま松濤美術館と写真美術館の展示にでかけた。旅するアロエ。●松濤美術館で見たのは「杉本博司 本歌取り 東下り」。写真美術館で見たのは、TOPコレクション「何が見える?「覗き見る」まなざしの系譜」「風景論以後」。

2023/10/8-2

●昼間、原稿。夜、ひとに連れられて銭湯へ行く。銭湯は苦手、苦手だけど行くとたのしい。裸になることへの恐れは昔と比べると随分うすれたが、いつもと勝手のちがう手順で入浴するというのがどうも首尾よくできない。あと熱いお湯にはいると温度差のせいで湿疹がでる。でもそのような身体的ストレスはたまにあってもよい、ような感じがする。湯気がもわんとしていること、湯のなかであわがぶくぶくして、細かなしぶきが舞っているのを見るのがすき。あまり見るのはよくないとわかっているけれど、ふっくらした白い体が視界のすみにうつるのもすき。銭湯にいくと、銭湯自体はさほどひろびろとしていなくても、過去にでかけた豪華な旅館の温泉の記憶が都合よく蘇って、ほてって頭のなかで走馬灯をなし、なんだかわずかに得をしたような気分になる。プルーストのマドレーヌの日常版として、お湯の身体感覚が惹起するちいさなタイムトラベルのようなものが存在している。

2023/10/8

●結婚はもちろん家父長制と不可分なのだけど、税制にまつわる制度として見れば異性カップルにとっては利用したほうが有利なこともあるだろう。だから結婚するカップルがいることは一つの選択肢として合理的であり、さまざまな工夫や配慮によって家父長制的な困難を被らない結婚もある程度までは可能である(苗字が変わるのだけは制度上どうしようもないのが苦しいけれど…)。それに、新たな生活共同体がつくられることはもちろん晴れやかで喜ばしく、それをお祝いするのはいつだって楽しい。●結婚式というものは常套の演出によらない工夫を凝らせばものすごく楽しいパーティーにできるという実例をいくつか知っている。ところで親族のみの結婚式というものは、結婚式を簡素にすることだから、どちらかというと非伝統的・現代的なものであろうと誤認していた。しかし親族のみが二人の関係を祝うということはじつは友人や知人らにもフラットに祝われることより遥かにグロテスクであることを知ってしまう。考えてみれば当たり前のことだけれど、結婚から家父長制以外の愉しさを削ぎ落として圧縮すると親族のみの結婚式になる。もちろん家族にも結婚は祝福されるべきだが、家族以外のひとにこそ二人の関係は新しくお披露目されるべきことであろうということに心づく。

2023/10/7

●午前中、寝る。家を片付け、清澄白河にでかける。2時間弱くらいで、都現美のデイヴィッド・ホックニー展、MOTコレクション特集展示「横尾忠則―水のように」、グループ展「あ、共感とかじゃなくて。」を見た。●帰りに清澄白河のナンディニに寄る。ダルスープがたいへんおいしい。●青山ブックセンターをうろつき、イラストレーター杉本さなえさんの展示を見、帰宅。

2023/10/6

●アンソロジーを編むべく家のなかの本をひっくり返しながら一日を過ごし、快楽に似た疲労に苛まれる。そのあと12時間くらい寝続けてしまった…。

2023/10/5

●ノーベル文学賞に、ヨン・フォッセ。案の定というべきか、日本の出版のマーケットに依存した読書の海図はこの名前に親しみがない(そもそも戯曲や詩が受賞する年にはつねに盛り上がりに欠けるわけだけど)。受賞者の著作が翻訳されていないことをただ悪いというと安易な西洋中心主義に陥り、ただ肯定すると翻訳文化の弱体化にかんする居直りになる。努めるべくはなるべく世界の著作の多くを明らめ、経済的に許される限り翻訳し、難しくともそれを透明化せず〈訳されていない〉ことが自明化されるような状況なのだと思う。●晩ご飯に、ごぼうのきんぴらと、ばら肉の紫蘇巻きと、カレーうどん。●ばら肉って紅白の薔薇のイメージ由来しているらしいと信じていたけれど、調べてみると肋(あばら)のばらだそう。しかしこの日記に書かれる限りにおいては「ばら肉」を頭のなかで薔薇肉とぜひとも変換してください。「ばら」の部分をひらがなで書くように気をつけるので。

2023/10/4

●装幀のあれこれを密談し、ハイになる。●わたしはハイだが、天気は悪く冷え込んでいる。夕方ひどく暗くなっている。どうして秋らしく過ごしやすい爽やかな日が来ないのかしらと、やっかむ。●昼はコンビニのグラタン。夜、カレーをつくる。

2023/10/3

●とりも直さずスパイスカレーが好きなのだけど、お昼に5分ほど歩いていったところに狭いけれども小綺麗なネパール料理店があって、香りの良いバスマティ米にたくさんのスパイスを使った炒め物、それにカルダモンのぷかぷかしたダルスープを出してくれることを知ってしまう。ここ最近はずっと深刻にお金に困っているからお昼のたびに外食だなんて明らかにするべきじゃないのだけど、朝起きるのが苦手なので朝ごはんをまったく食べられず、昼にはもうがらんどうになった胃にたっぷりの温かいスパイスをなじませるとなんだか神経系が脈打つような(薬物由来の)嬉しさをおぼえて頭がくらくらとする。一度出かけただけなのに、そのくらくらを脊髄がはっきり記憶してしまって、そのせいで昼になると思わずふらふら出かけてしまう。歩いてたっぷり5分もかかるそのお店に…。●いずれにせよあまりたくさん食べられないから、わたしには肉の入っていない軽めのセットのほうが好ましい(値段も肉入りのものより100円ほど安い)。野菜やじゃがいものスパイス炒めと具沢山のアチャールが添えられたバスマティ米のふかふかのごはんに熱いダルスープをかけて食べ、時折ミルクティーを飲む。体は火照るのに胃腸はあくまで軽く、スパイスの効果か、午後もまったく眠くならない。心身は食に支配されているだなんて言うに及ばず。●新しいお店のようで、立地もあまり良くないのではじめはガラガラだったらしいが、ここしばらくの間に明らかに客がふえている。なんとか秘密にし続けておきたい。

2023/10/2

●外国語は手段なのだから、という常套句はまったく正しいのに、外国語を読むことや話すことそのものを快楽のように感じてしまうことが多い。たぶんわたしはこの身体をつつみこむ言語の檻を憎んでいるから、他者の言葉を慕わしいと誤認してしまうのだろう。でもこれほどまでに憎しみが強ければ、いつかこの身体がもうひとつの言葉に馴染む日が来るのかもしれない。●まえの仕事でも当たり前に英語は使っていてビジネス上は困らなかったけれど、近ごろは文学のテクストを読むようになってまたたびたび辞書を引くようになったことが嬉しいのだった。語彙が拡張されることはこんなにも好もしい。●(自分のことを語彙は多いほうだろうと早合点していたけれど)英語だけでなく知らなかった日本語をも扱うようになって、漢字ひとつひとつの異なるかたちのこともその都度調べるようになり、母語だと思っていたもののなかに未知の領域がひろがっていると知ることが、渇いた喉に真水をなみなみ注いでいるみたいに嬉しい。そんな微細な違いを言葉のなかに見知ることはたぶん芸の外側の経済のうえではなんの役にも立たないだろう。馬鹿げているなら馬鹿げていると思われていい。●ロアルド・ダール原作、ウェス・アンダーソン監督の短編映画を4本、Netflixで見た。

2023/10/1

●みなみしまさんの本『心学校』のポップ作りをちょっと手伝う(わたしはこういうクラフト小物のようなものをどちらかというと要領よくかわいくつくれるようなところがある。器用貧乏だから)。ダルラジ賞の表彰状をつくったときのことが思い出された。●ロアルド・ダール原作のウェス・アンダーソンの短編4つがNetflixで配信されており、そのうちのひとつ『ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語』を見る。およそ三重の語りの構造、そして小説の文体を一人称のみならず三人称であっても用い、役者が地の文をしゃべるときにはカメラに向かって喋る。小説ではあたりまえのことを映画でやるとこんなにも面白いのか、と拗ねたような心地になる。『アステロイド・シティ』のプロットは心地よく壊滅していたけれど、『ヘンリー・シュガー』の物語は非常に明瞭。●お昼はいい具合のパスタ。先週の金曜日にスマホの複雑怪奇な契約をしたときにキャッシュバックとしてもらったJCBギフトカードをつかって普段買わないような食べ物を買い込み、家でくつろぐ。それにしてもギフトカードでのキャッシュバックのためにいらない契約をいくつも結ぶのはとにかくばかばかしいとしか言いようがない、という無念さをほのかに再燃させながら(しかしギフトカードとはいえ数万円の差額は大きいのでばかばかしいと思いながらも従うほかないのだった)。

2023/9/30

●第7期のダルラジパーソナリティのMさんがとあるSFの賞を受賞したときいて、とても嬉しい。しかもMさんはもともとわたしがダルラジをやっていたときのヘビーなリスナーだったから、わたしはわりと感傷とは無縁の人間だと思うのだけど、それでも素直に喜びもひとしおなのだった。お祝いの会を設けなくっちゃ。●朝、じゃがいものガレットに目玉焼きをのせたものと、カフェオレを淹れてゆっくり食べる。そのあと、土曜日なのになかば仕事をしているようなものだけど、のんびりとスパニッシュSFのリーディングをする(スペイン語はできないので、英語で)。

2023/9/29

●お昼は、イタリアンレストランで明太子パスタ。●夕方、急に生活をがんばる気力が湧いてきて、夕飯に鰤大根をつくる。

2023/9/28

●ランチに、本格的なネパールカレーを食べる。満腹になったけれど、スパイスの効果か午後のあいだも頭はすっきりしている。●いまある本の復刊企画に携わっているのだけど、それはあの伝説的な編集者(おそらく編集者と呼ばれるひとのなかではもっとも強力で悲しい伝説をもっているひと…)がほとんどはじめて担当したものであろう、ということを察した。そんなことならば装丁も帯も解説もかえずにそのまま出してしまえばいいじゃないかと思わず言いそうになりそうなところ、しかし復刊としてしかと対峙しなくてはならないのだな、と思い直す。●自分の企画でなくともつくる本はどの本もいとしい、と思ってしまうような能天気さがわたしにはある。おめでたい人間だから。●最近は電車の中でいろいろな制作をしている(文章を書いたり、その他の悪巧みのための作業をしたり)。けっきょくスマホを結構つかっているので、あの悪夢のような晩に結局スマホを丸ごと買い替えてひとまわり大きな機種にしたのも案外悪いことではなかったのかもしれない。

2023/9/27

●とにかく長く眠ってしまう。たぶん寝れないよりましなのだとおもうけれど、(私生活が欠落してずっと生産的な活動ばかりしていることになるから)すかすかの記憶喪失みたいな心地がするので、そこそこの睡眠時間にできればおさまっていてほしい。眠気は不可抗力。昼間はふつうに起きていて夜に限りなく眠るので、一見するととくに困難はないのだけれど。わたしは昼よりも夜のほうが好きなのでとても不本意。

2023/9/26

●ランチはコンビニのおにぎり。

2023/9/25

●ここ最近はまあまあストイックな生活をしていたけれど(お金がないながらも健康でいるためにはとりもなおさずストイシズムが重要なのだった)、この日はけっこう疲れていたので昼も夜も適当なごはんをたべる。睡眠不足だったはずなのに、適当にだらだらしているといつのまにか夜遅くなっている。早寝するのにも体力が必要だから。

2023/9/24

●衣装もヘアメイクもかなりきちんとしたうえで、広島の結婚式に。深夜過ぎに東京に戻る。

2023/9/23

●部屋を片付け、新幹線に乗って広島へ。

2023/9/22

●スマホの修理に行き、とてつもなくひどい思いをする。詳細は割愛する。こういう愚痴こそ蓮實重彦の文体で壮麗に綴られなくてはならない。わたしはただ八百屋でトマトを買うかのごとくスマホが欲しかっただけなのに。●何時間もスマホの契約のために費やしたあと、急にかなりの大雨が降りはじめる。最寄り駅からタクシーに乗れればよかったけれど、案の定タクシー乗り場は長蛇の列だった。折り畳み傘しかなかったので、足元をプールに突っ込んだみたいにずぶぬれにしながら帰る。あまりにぐしょ濡れにしてしまったので、気に入っていたパラディウムの靴はもう処分してしまうことに決め、翌日からオニツカタイガーのシルバーの靴を履くことにする。

2023/9/21

●スマホがほとんど用をなさないなか、冗談のように不便な日常をおくる。漢字変換が事実上できないので、すべてのメッセージをひらがなで送る。メールは読めない・書けない。

2023/9/20

●夕方、シネクイントに「アステロイド・シティ」を観に行く。観るまえに、近くの「人間関係」にひさびさに行ったら、平日だからかひどく空いていて、記憶していたよりもかなりご飯がおいしい(そして安い)。600円くらいのボロネーゼをたべてすっかりほくほくとし、シネクイントに行くと偶然にもサービスデイで1300円で映画のチケットを買え、さらにほくほくする。ほくほくしたままピスタチオアイスを買って劇場に入ると、記憶していたよりもすごく広々としてふかふかの気持ちのよい座席で、さらにほくほくになる。アイスをたべながらのんびりと「アステロイド・シティ」を見、おおいに笑い、愉しみ、わりと満身創痍気味だったのがものすごく体調がよくなって、るんるんと帰宅する。●ほくほくと歩いているとスマホを落として画面が決定打をくらい、8割ほど画面が見えなくなる。しょんぼりとほくほくが綯い交ぜの状態で帰宅し、大急ぎで修理を予約する。

2023/9/19-2

●東京と地方の文化資本の格差が…という分かりきった絶望が拡散されているようだけど、10年ほど経てばまあまあ同じになるから大丈夫(?)だよと念のため言っておきたい。10年を自分で取り戻して、10年後にスタートすればいいのだと…。

2023/9/19-1

●部屋の壁に穴があり、穴の向こうがいつも赤い。その赤いものはじつは充血した目であった…という怪談?を子どものころに悪友に聞かされ、不本意ながらぞっとしたのを覚えているけれど、そんなことより夏がおわるぎりぎりのいまのうちにサングラスを買いたい。紫外線にさらされた我が二つの眼球が、のらくら歩く怪談になってしまう前に…。●絶版なのに公開しないなんて、という読み手の苛立ちと、隙あらば再版できるようにするため公開しないのである、という管理側の心得のまっとうさもよくわかる、ということ当たり前のことを朝からしみじみ噛み締めている…。

2023/9/18

●ペンションの、サンルームのような小部屋で、ご機嫌にならずにはいられないような朝食。タクシーに乗り、セゾン現代美術館へ行く。「荒川修作+マドリン・ギンズ《意味のメカニズム》 全作品127点一挙公開 少し遠くへ行ってみよう」展。普通に知らなかったのだけど、これら127点がすべてセゾン(元西武)美術館所蔵なのだという(『意味のメカニズム』を図書館でしか読んだことがなかったから知らなかっただけで、荒川修作まわりのひとには常識なのだろうか…)。●わたしはそこそこコアなファンなので、貴重で迫力のあるコレクションを有り難く楽しめたけど、ガイドとなる説明が過剰に少ない展示ではあった。そもそも普通に展示を見にきただけの人間の認知力では、それぞれに負荷のある127点すべては飲み込み難いであろうと思いつつ、それにしても
、普通の美術展の展示にあるようなセクションごとの導入文のようなものすら欠いていた。●『意味のメカニズム』日本語版が絶版であること、そしてどこかの図書館でそれを読んだときのおぼろげな記憶ではその日本語版も、それぞれの作品に詳細な解説がついているわけではたぶんなかったことを考えると、たぶん単なる翻訳ではない作品ごとのディスクリプション付きの本があるのが望ましいのだろう、と思いはする(ある大学の先生方が《意味のメカニズム》1作品ずつの読みを記したオンライン資料が既にあるのも知っている)。でもそうした本をつくったときどれほどの人の手にとられることになるのかわたしにはあまりわからない。もちろん本をつくることが手に取られることの最低条件ではあるのだけど…。子どもに訴求するような教育的な親しみやすさも大事だけれど一方で、なにかしらのポップさのようなもの、そして何かしらの、なんというか、これさえあれば現代美術史の平面的極北=終焉においてばっちり震えることができる!(?)と言い切ってみるようなキャッチーさが必要なのだという気がする。●バスで軽井沢駅の付近まで戻り、軽井沢ニューアートミュージアムを再訪してイタリアンのランチを食べた。まったく混んでいなかったので穴場かもしれない。ガラス張りの空間には親しみやすい軽薄さがあり、それはそれで良いのだけど、展示もお料理もしみじみ正統な感じで、それがわたしには良い具合だった。

2023/9/17

●軽井沢へ。セゾン現代美術館の荒川修作+マドリン・ギンズ《意味のメカニズム》展が目当てで、その日のうちに出かけるつもりだったけれど、かんかん照りのなか軽井沢の銀座通りを歩いていたら体がほかほかになり、いかにも熱中症に陥りそうだったので予定を変更する。「風立ちぬ」で出てきた万平ホテルが工事中のところを遠目に眺め、大根おろしの添えられた蕎麦を食べ、軽井沢ニューアートミュージアムで展示を見て本を買い(気軽なデザインショップみたいな建物の印象に反して、展示は正統な現代美術の作品が充実していた)、冷たい缶ジュースで関節の血管を冷やしながら電車とタクシーで移動し、早々にペンションにチェックインして休むことにする。●予約していたペンションはDIY的な素朴さながらも非常にかわいらしく作り込んであって、清潔で、居心地がよい。天井の斜めになった2階の小部屋で、真昼間からお風呂に入り、短い昼寝をして体を冷やし、元気を取り戻す。●夜、うまく食事処を見繕えず、ステーキハウス風居酒屋?のようなところで夕飯にする。ペンションの小部屋に戻り、美術館で買ったグアダルーペ・ネッテル『花びらとその他の不穏な物語』を読む。昼間にあびた紫外線で、両眼が充血している。

2023/9/16

●午前中、部屋中をきれいに片付ける。●いくらかの細かな仕事をしたあと、近所の図書館の本を返し、そのあと都立図書館へ。受験生なんかがたくさんいて混み合っているのかと思っていたけれどそんなことはなく、普通に空いていた。都立図書館に行くと、結局調べものよりも、有栖川記念公園とその近くにある国際スーパー(結局自分が買うべきものはほとんど見つからない)を物色するのが楽しくなってしまい、調べものが捗らなくてもなんとなく明るい気分になってしまう。1つ300円もするのにかなり小ぶりのスコーンをパン屋さんで買い、かじりながら、うきうきと帰る。

2023/9/15

●前の晩、ひさびさに夜中出かけて食事をした。月島でスペイン料理。タクシーで帰る。●お昼は、オムライス。案外、眠くなったりしなかった。●晩ご飯に、鮭や榎茸のお味噌汁。

2023/9/14

●エッセイの話をするならばゼーバルトを読まないといけない気がする。いま書いているお話も、ゼーバルトやトカルチュクみたいな語り口で書けばよかったのかもしれない。でもそういうことは、特に純粋な虚構の場合は段階を追って実践していかなくてはならないし(そんなことをせずとも取材をすれば簡単にその語りのところへ浮上できるのかもしれないけれど、事実をもとにお話を書きたいという欲望はわたしにはあまりに薄いのだった)、なんにせよ書きものの半ばでさらりと変えられるものではない。●エッセイをエッセイの文体で書くのは普通に水平的なことだが、小説をエッセイの文体で書くにはまず①虚構へと降りて(ある虚構を再現的に語り)、②虚構な現実とおなじくらいの細部を仕立ててから(①を物語の過去として再話し)、③ふたたびエッセイの語りに浮上しなくてはいけない(②に語りの現在を追加する)。わたしに言わせれば、物語の世界は書く行為の中で開かれるので、①②③を頭の中だけで済ませることはできない(取材を充実させることで①②を簡略化できるかもしれないけれど)。ほんとうに骨の折れることであり、トカルチュクやゼーバルトが小説の執筆に莫大な時間をかけていることも納得がいく。●家に巨大な辞典がとどく。たいそう立派な辞典。鞄にいれてみるとさほど重くはなく、驚く。●電車のなかで日記のようなものを書いているひとのスマホの手元がちらりと見え、あれは保育園かなにかの通信欄かもしれない。「ここ最近、」でその文章ははじまっていた。「ここ最近、」の部分しか覚えてないけれど。●インドに旅立った知人のInstagramを見て、その健啖家ぶりに感心している。名前のわからない、匂いがよくておいしそうなさまざまな食べもの、とろとろのものやパリパリのものをつぎつぎと食べている。●匂いといえば、ずっと根に持っていることをときどき思い出す。ある良い感じの雰囲気の洋酒のバーで、出されたお酒に「いい匂い」と言ったら、お酒にはにおいじゃなくて香りって言わないと、においとは臭いものについて言うんですよ、と若いバーテンダーに得意げに言われたこと。もう5年以上も前のことなのにずっと覚えていて、ぐつぐつとねちねちと恨んでいる。そんなばかげたマンスプレイニングがあってたまるかと思う。●べつにそれと関係あるわけではないのだけど、与謝野晶子の「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」はあまりにわかってしまうというか、男の子に腹を立てているときに溜飲を下げるのにいつでも使える下世話な秀逸さがあると思う。元祖マンスプ批判なのではないか、これは。

2023/9/13

●朝、いつもより20分ばかり早く目覚める。コーヒーをつくって簡単な調べものをし、ポメラで文章を2行くらい書く(先月買ったポメラDM250の機能に不満なところもないではないけれど、機動力はわりといい感じ)。あっというまに20分経つ。●朝のうすぐらいキッチンでコーヒーをつくるのは愉しい。早起きを義務のように思っていたけれど、朝を快楽のようにみなすことでうまくいくこともあるかもしれない。さりとてれっきとした夜型であることに、恐らくは永遠に変わりはないけれど…。●日比谷と渋谷を聞き違えて、体の浮いたような心地がする。どこ。

2023/9/12

●さいきん、辞典を読む仕事をしている。始めから終わりまで、くまなく読む。辞典を読む仕事は、楽しい。わたしはとにかく全体性とか一元性のようなものに敬意をおぼえる性質がある。辞典とはひとつの宇宙です。●長大な文字の羅列のなかから間違いをなくす仕事はまえの仕事でもやっていたし、得意だった(ただ間違いをなくすところの対象は宇宙ではない、どこまでもデータの流れてゆく開放系だった)。間違い探しは、いまでも得意。神経症とは往々にして美徳である。●副鼻腔?あたりの響くような痛みはゆるやかに良くなり、今度は肌が荒れだしている。これまでは1週間ほぼメイクしていなかったところ、最近はまいにちのように日焼け止めをぬり、マスクすらつけているのだから肌の調子がおかしくなるのも当然だと思う。マスクにはマスクの美点があるので付けるのが嫌というほどではないけれど、肌質的にあまり合わないなと思う。●アウステルリッツを少し読む。●以前、手話の出てくる物語を書く準備に凝っていたことを急に思い出した(折しも『Coda あいのうた』が流行り始めたので、なんとなく二番煎じのような気持ちになって引っ込めてしまったけれど)。わたしがいちばん考えるべきは戒律としての沈黙と、それを遵守するためにつくられた手話のことだと思う。そのような手話は歴史的に実在していたことが知られる。

2023/9/11

●眠っている間、閉めそびれていた窓から蚊が侵入し、深夜に目覚めたときには両腕を何箇所も噛まれていて落ち込む。かなり痒い。いそいで窓を閉め、室内だが蚊取り線香を焚く。肝心の虫刺され薬を持っていないけれど深夜だからどうしようもなく、とりあえず保冷剤で腕を冷やしながらしょんぼりと眠る。●朝起きると、虫刺されの跡も痒みもすっかり消えている…。しかし蚊取り線香は焚かれている。●風邪は治ったけど副鼻腔のようなところの調子がずっとおかしく、飛び跳ねたりすると頬骨がつんと痛む。風邪じゃなくて、虫歯?

2023/9/10

●山でたっぷりと朝食をとり、ベルガモットの匂いを嗅いでから、帰路につく。帰りに立川の紀伊國屋書店で本をたくさん買ってもらい、銀座でおいしいスパイスカレーを食べる。最寄りから家までの帰りしな、買いすぎた本のために呻き声をあげつづける。欲望にまかせて本を入手したことへの天罰。●『失踪の社会学』をうきうきと読んでいたくせに、夜、1週間分の食糧をまとめて買い求める。失踪する気がまるでないみたい。

2023/9/9

●家を片付ける。お昼は、海苔のパスタ。●山中の、付近に川の流れる古民家へ。梅ジュースをのみ、川のそばで薪をあかあかと燃し、バーベキューをする。ここでは毎日が日曜日。畳の上に布団を敷き、こんこんと眠る。

2023/9/8

●久しぶりに1週間働き、くたびれる。お昼に外食。夜、鮭ときのこの混ぜご飯をつくって、たべる(かなりおいしい)。

2023/9/7

●装丁についての勉強。夕飯は、きのこのパスタ。

2023/9/6

●執筆にせよ編集にせよ、とかく文章というものはきわめて労働集約的に作り出されるものなのだった。そのことはあまり苦に思わない。生活と健康をちゃんとすることも、いまは楽しい。UberEatsとAmazonとMicrosoft Teamsによってひとたび失われ、取り戻してみることもあまり悪くはない日常の細部はたくさんある。●1週間以上つづいていた風邪がようやく治った。扁桃炎にならなくてほんとうによかった。●夕飯は、皮を剥いた茄子と白菜とばら肉を煮たもの、かぼちゃのサラダなど。

2023/9/5

●22時にはとてもねむたくなり、ねむった。

2023/9/4

●毎日、生活をがんばっている。金曜日よりとても体調がよい。

2023/9/3

●「オオカミの家」「骨」をイメージフォーラムで観た。とてもよかった。いまさらながらわたしはアニメーションが好きみたいだ、とくにモーション・アニメはとても好き。建築が好きで箱庭が好きなのとおなじ理由だろう。そして世界とは認識の牢獄にほかならない。また詳しい感想をここに書きたい。

2023/9/2

●歌舞伎町のフランクフルト学派の山本浩貴さん回へ行く。新宿で甚だしく迷いながらも、なんとか新宿ロフトへ到着。なんだか登壇者の皆さんに親しみを覚えすぎていて不思議な気持ちになる。文學界エッセイ特集の話題を受けて、山本さんが、エッセイがフィーチャーされるのは相対的に虚構の地位が下がっているからという話をされており、そんなことはもちろんわかっていたけれど、明言化されてちゃんと暗い気持ちになる(しかしそれでもさまざまな手立てのもとで虚構を書いているひとがいることは驚くべきこと)。●本編も楽しかったが、参加させてもらった打ち上げも楽しかった。16時の新宿であいている喫茶店なんかがあるとは思えなかったけれど、なんとHUBに行ってみるとガラガラで、静かで、たいへん居心地がよかった。(明らかに本場より美味しい)フィッシュ・アンド・チップスと、コーニッシュパイを食べる。今度から午後の新宿で路頭に迷ったときはHUBに来ようと心に決める。●なにかとパブリックにはしづらい話がいろいろできた気がする。また、昔からなにかと縁があるけれどほとんど会ったことのないロバさんと再会した(ダルラジを始めたひとりであり、またわたしが朗読で出演していたCwC公演の戯曲を書いた人)。

2023/9/1

●昨晩の小説のせいで、寝不足。いよいよ新しい仕事を始めることになり、慣れない早起きをする。帰りの電車でひどい頭痛をおぼえ(バタバタしてコーヒーを飲み忘れていたから、カフィイン切れと熱中症と寝不足と治りきらない風邪が合わさって何かおかしくなったのだと思う)、どうしようもないので、とにかくポッドキャストをランダムに聴いてその場を凌ぐ。死ぬときに最後まで残るのは聴覚だって言うよね、なんて大袈裟なことを考えながら、電車の席でひたすら聴く。●烏骨鶏というものは誰しも知っているものかしら?

2023/8/31

●東京にいる。●必要に迫られて丸1日で8,000字の小説をはじめから書き、書き終わり、疲れる。こういう書き方は良くない…。

2023/8/30

●東京に戻る。

2023/8/28

●所用のため広島へ。新幹線の車酔い防止のため耳栓を買ってみる。効果があるのかよくわからないけれど、車酔いは半分精神的なものだから悪くないような気がする。書くのは難しいけれど、読むのはわりとできる。●喉風邪はゆるやかに鼻風邪へと移行し、喉はましになっている気がする。

2023/8/27

●喉風邪を引く。去年さんざん苦しんだ喉の病気を再発するのではないかと戦々恐々としながらぼんやりと原稿をする。

2023/8/26

●ソウルから戻る。諸般のトラブルのためフライト内で眠れず(詳細は旅行メモ参照)、帰ってからこんこんと眠る。

2023/8/24

●突如思い立ち、21日からソウルに来て、展覧会ばかりだらだらと見ている(詳細は別の旅行メモに記している)。ソウルに行くとツイートすると複数のひとから〆切は大丈夫ですかとリマインドされ、ソウルでも書くから大丈夫と思っているつもりだけれど、展覧会に行き始めるとなぜか欲が出てどんどん行きたくなってしまい、今朝さすがにまずいと思って出歩くのではなく椅子に座りPCをひらいてみた。

2023/8/20

●なぜかぜんぜん元気がでず、だらだらと原稿。2章目を書き終わる。●急にソウルに行くことに決め、明日からの航空券を買う。●夜、書評をひとつ書いて送る。

2023/8/19

●新美の図書館で作業。蔡國強の展示がほぼ最終日だとなぜ誰も教えてくれなかったのだろう…。●よく行く駅に近い図書館の貸し出しカードをつくり、金魚関連の本を借りる。重い…。●ポメラの機能をいろいろ試したあと、貸してくれていた猿場さんに返却。そのあと自分用のポメラを注文する。

2023/8/18

●夜、アーティゾン美術館の抽象画の展示を見に行く。面白かったけれど、抽象画の大文字の美術史という感じではなかった。たぶん館の収蔵品を繋いでいくように歴史を描いてその隙間を他館の作品で埋めたのだと思うけれど、だとしたらその収蔵の営みがめざしているものはなんなのだろう。●かなりの数の知り合いがコロナウイルスに感染している。わたしは先週末に相当の数の人たちと連日食事をともにしたけれど、いまのところ発症していない。大部分の時間、炊事をしていたから、手が清潔だったのかもしれない。でも念のため、遠くに出かけて年上のひとらと会うのは10日ほど経ってからにしておこうと思う。

2023/8/17

●『真鶴』の美点は、これまでの物語とまったく関係ないひとたちが登場し、物語が終わること。いかなる文章も〈はじめに出てきた要素を最後に拾っていく〉ことで終わらせることができるけれど、これはかなり表面的な語りの技術にすぎないから、オルタナティブがあればあるほど、いい。

2023/8/16

●天命反転ステイ中にさまざまなひとの料理の手つきを見て、いろいろと勉強になった。まず、大人数の料理をつくるのはそれだけでひとつの技術であり、家庭料理のうまさとはまたべつの技能が必要であるということ。その技術はメニューの組み立てから発揮されなくてはならず、たとえば先に仕込んでそのまま出せる料理や、ほったらかしで調理できる料理をどれくらい組み込めるかによっている。つぎに、より個別具体的な発見として、八角というスパイスがかなり魔術的な効能をもっているということ。魔術的なという表現は誤解を招くけれども、薬物的・生理的な方法でおいしさの感覚を刺激するようなところがあり、料理の味が決まる。黄桃のスパイスシロップ煮、じっくり煮込まれた魯肉飯、ワンタンスープ、中華風ハムなど、どれもこれもいい具合の味わいだった。●そういうわけで魯肉飯を見よう見まねでつくってみたのだけれど、あまりうまくできなかった。魯肉飯は、中華料理では紅焼〇〇と言われる類の料理のバリエーションのようで、フレンチの煮込みとはまったく組み立てが違う。ポトフなどでは、なるべく大きな塊の肉をスパイスとあわせ、スープを濁らせないように静かにゆっくり煮て、できあがったコンソメと肉の双方をたのしむが、紅焼〇〇はそうした発想の料理ではない。手順としては炒め煮であり、イメージとしては佃煮にも近いかもしれない。まず塊肉を細かく切り、脂を出し切るまでかりっと炒める(このとき、自動翻訳で読んだレシピでは、脂+スパイス+砂糖で炒めているように見える。脂の炒め物に砂糖をいれるというのは中華料理的だと思う)。炒めた後でスープを追加して煮詰め、その過程で柔らかくなっていく、というような感じ。●執筆と煮込み料理はおなじ生活のリズムの中に組み込まれたがるようなところがある(どちらもやたらと時間ばかりかかるし、部屋にいなければいけない)ことに加え、そもそも食べ物として固形物よりも液体が好きなので、煮込み料理の幅はもっと広げていきたい。

2023/8/15

●三鷹天命反転住宅でのステイはとても楽しかったのだけど、なんでステイをするのかというところがいまになってピンときたような気がする(たぶん身体的にはわかっていたのだけど、今回久しぶりに訪れて、わずかに言語化できたことのひとつとして)。ひとつにはわたしたちは何回も周回遅れで、ある種の全体論=一元論、総合知のようなもの、あるいは横断的なものを擁護しなければならないのだということ、というか擁護しようとする信念をときに思い出さなくてはならないということ。もちろん、日常にはニヒリズムが一番似合う。わたしたちの生きる世界は、許しがたく溜め息しか出ないような愚劣な事象に満ちており、それらを目の前にして学び語ることはいかにも虚しい。ほんとうにすべてを包括可能な議論など存在しないのであろうことをわたしたちはほとんど明確にわかっている。それだから全体論などと聞けば、唇をめくらせて笑いたくもなってしまうかもしれないけれど、その夢をひとときばかりでも見させてくれるのがあのキッチュな、あらゆるものを織り込み済みの密室空間、学知と生命と生活に対してひらかれたあの空間ではなかったかしら。●いかにも単純に触発されてしまったようで、実際に現実の生活を送られているご家族に申し訳ないが、生後2ヶ月のSさんが天命反転住宅に来たことで、この住宅とわたしたちの生命には確かに関わりがあったのだということを、なんだかふと思い出してしまった。●そう考えると、来年以降の運営についてなにか一定の方向性が見出せるような気もする。というか、具体的なやり方は変えなくてもよいし、料理などは普通により一層洗練させてゆけば良いのだけれど(というか料理の手際が悪いのはわたしだけでみんな仕込みがきわめて上手かった)、会の案内がもう少し方向づけられたものになるような気がする(今回は手がまわらなかったけれど、ちゃんと招待状をしたためてあなた=たちのもとに送ろう。A+Gの用意したものに新たに付け加えてインストラクションを用意しよう。あなた=たちの言葉と関心を引き出すためのかぎ針をもう少し細かに仕掛けよう)。

2023/8/14

●グリルの残りのポテトをほくほくに焼き直して朝食にする。午前中にも手短に来客があり、巨峰などを食べる。わりと余裕をもって部屋を片付け、チェックアウト。TRくんが片付けを手伝ってくれ、YRくんが車を出してくれた。調布駅まで車に乗っていき、ランチに鉄板焼きを食べる。自宅の最寄駅から家までスーツケースを押していくのはやはりというべきか大変で(これまでまったく気づいていなかったが、最寄りから自宅までは全体的にゆるやかな登り坂になっているようだった)、汗ぐっしょりになって帰宅する。シャワー、昼寝、荷ほどき。

2023/8/13

●障子をあけて寝ると涼しいが、東向きの窓から陽がさすとまぶしくて、朝早いのにすっきり目が覚める。太陽とともに寝起きをしている。●朝ごはんはホットケーキと、ラタトューユの残りにカスピ海ヨーグルトとディルとオリーブオイルをかけたもの。贅沢…。●朝から来客。YKくんが魯肉飯をつくってくれる。STさんがサバ缶とブロッコリーのペンネをつくり、わたしとTくんがYRくんを手伝ってワンタンスープをつくる。YRがしれっと中華風低温調理のポークを仕込む。やがてYRくんのパートナーAさんと、ふたりのお子さんであるところの生後2ヶ月のSさんの来訪。Sさんはプリンセスのようにあらゆるひとに歓待され、代わる代わる大人たちに抱き上げられる。あまり泣かず、泣いたとしてもあまり大きな声ではなく、なんだかコミュニカティブな感じで言語未満の言語のように泣いている。ひとの発した声があちこちに反響する、黄色い球体の部屋(study room)に連れ込んでゆらゆらと抱いていると、音の感じが心地よいのかそれとも単に寝るタイミングだったのか、すやっと眠ってしまった。抱いたまま、部屋のハンモックも体験してもらう(Sさんは横揺れより縦揺れがタイプらしいのでハンモックがどこまでお気に召したのかわからないけれど、眠ったままだった)。STさんがお祝いに持ってきた、立派なKAWAIのトイピアノがSさんにさずけられた。弾くと、電子音ではなく鉄琴のような柔らかい音がする。Y夫妻の周囲の文化人たちに囲まれて、Sさんには途方もない英才教育がほどこされることになるだろう。●午後から、また来客。おやつは、YRさんにつくってもらった、焼きたてのスティックパン(ごま味およびチーズ味)と大玉スイカ。カードゲームのほか、ルール形成そのものがゲーム化されているゲーム(ノミック)をおこなう。ルール形成の結果、みんなでランダムに?文章をつくって音読する運びとなった。その結果つくられた文章:「スフィンクスがまつ毛を伸ばしたのは、1000年前の北極でした約束を守るためだったのだけど、そのくせ約束を忘れて自分のではなくラクダのまつ毛をカラフルにして原宿にチーズハットを買いに行き、ニコニコしながら虹色のソーダと一番星の友達を誘惑して一緒にピザになりました。」●裏千家のSさんが来て、畳の部屋に書を吊るして花を生け、出張版のお茶会をしてくれる。そもそも反転住宅に畳の部屋やふすまがあることが面白いのだけど、その突飛さのうえに持ち込まれた保守性のためにふたたび空間の雰囲気ががらりと変わる。●3日目の晩ご飯。茄子、アスパラ、えりんぎ、黄色のパプリカ、チキン、ポテト。殻の剥けない卵でつくった2度目の魯肉飯。お昼のワンタンの残りの具でつくった餃子。菜っ葉のサラダ。今回のステイはほとんど誰かが料理してくれていたので初めて自分で用意したら、けっこう手間取った。大人数の料理をつくる際には仕込みが肝心で、普通に一品ずつ作っていると、数品できたころには最初の料理が食べ終わっていたりする。

2023/8/12

●天命反転住宅の東向きの部屋を閉め切って寝ていたら、朝陽の熱が苦しくて早朝に目が覚める(空調がきくように、翌日から障子を開けたまま寝ることにする)。●朝、ホットケーキと、バナナヨーグルトを食べる。昼前から、来客がたくさんある。TRくんがシェフとなり、ケフテデス(というトルコのミートボール。ヨーグルトとディルをつかったソースで食べる)と、ジューシーなサバサンド、いちじくのサラダ、黄桃のスパイス煮込みを作ってくれる。わたしは練ったり丸めたり包んだりする単純作業が得意なので、粛々とミートボールの手伝いをする。●午後からも、来客がたくさんある。ひといきれと外の猛暑のために、いままでになく部屋が暑いので、しきりにお茶を飲みつつ過ごす。みんなおのおの、話したり、なにか読んだり、ゲームをしたりしている。表象文化論、建築の歴史系のメンバー、批評のひとびとなど、みんなが揃ってきたところで、Tくんによりアラカワ+ギンズのレクチャーと、みんなのディスカッション。さらに来客があり、夕方にはYRくんの仕込んでいた大量の料理がさらりと完成して食卓にあらわれる。YKくんがホオズキなどのお花を買ってきて、生けている。チキングリル、クリームニョッキ、ラタトゥイユ、ポテトサラダ、低温調理ハム、その他さまざま。●夜、部屋が静かに/涼しくなる。朝が早すぎたのと昼間暑かったのとで急激にぐったりと眠くなったところで、昼間に煮られた黄桃のシロップを冷たいソーダで割ると大変おいしいことがわかり、しかもスパイスが効いていて頭がにわかにはっきりしてくる。しきりに桃ソーダを褒め称えながら、眠りにつく。

2023/8/11

●朝、ポッドキャストの編集をする。前の晩に編集していなかったので、当然作業が終わらない。大急ぎで4日分の荷造りをし、スーツケースを引きずって、吉祥寺へ。暑いせいでまたへばり、吉祥寺では海鮮丼を食べたかったのに、泣く泣くお惣菜を買うにとどめる。●吉祥寺でTくんと落ち合って買い物し、バスに乗って、三鷹の天命反転住宅へ。チェックインし、お惣菜をたべ、しばらくは書類仕事。そのあと来客が何人かあって、ごはんをつくり、ゲームをする。シェフはYくんで、鯵と鯛のアクアパッツァと、玉ねぎや小松菜のスープ。アクアパッツァの出汁をつかったパスタ。食後は、カードゲームと、3人でプレイする四目並べに興じる。

2023/8/10

●ばたばたしてDVDを何枚か見ないまま返却することになり、しょんぼり。正午ぴったりを狙ってDVDを返しに行き、その帰りにSちゃんの出産祝いを選ぼうとしたら、なにが素敵なのかよくわからなくなって、買えずしまいとなった。●炎天下の昼間にでかけたせいかあまり調子がよくなく、ぐったりして過ごす。昼間にも少し眠る。書くべき書類を書き終われない。昼間に寝てしまうことは社会からの疎外を簡単に招くだろうと思うとなんだかやや暗い気持ちに。●夜、短いポッドキャストを収録。

2023/8/9

●横浜から帰宅。chatGPTでのフィクション制作についてあるDiscordで盛り上がっていたので、そこであれこれとコメントをしながら。●このあとしばらく家をあけることになるので、お家への餞ということを口実にして、良い感じの料理をつくった。たっぷりのクリーミーなマッシュポテトに、いんげん豆のソテー、たらのムニエル。ついでに、茹で蟹、あゆの塩焼き。●夜、人生初の「もののけ姫」視聴。

2023/8/8

●突然、横浜にでかけて、泊まる。良い具合のホテルに良い具合の価格で泊まれてうれしい。部屋にはバルミューダのレンジがあり、操作するとアコースティックの楽器みたいな優しい音がする! いい具合のラウンジでにこにこと原稿をし、およそ1章分を書き終えるところまで進む。

2023/8/6

●SF大会2日目。登壇したパネル「国外の土地を描くSF:台湾とチベット」は立ち見の出る盛況だった。わたしの目の前の席にぬいぐるみを抱えた新井素子さんが座ってくださりほっこりしながらのスタートだった。●パネルに誘っていただきゲストとして参加できるのはありがたいけれど、こんな大規模な大会が60年もつづいているのは奇跡的なようで信じられないという思いを新たにする。●パネルで批評理論概説のようなことをしたときに、ポストコロニアニズムの説明で、理論の世代間の受容の違いのことを話そうとして「SF大会は世代が二極化していると思いますが…」と何の他意もなく言ってしまい、それがかなりウケたので(ウケた結果として会場は温まったと思うので嬉しかったけど)びっくりした。つまり高齢化はSF大会における鉄板の自虐ネタなのだ! 年齢の話ばかりをするのは実りがないので、慎もうと思ったけれど(実際、若手とよばれるひとたちの年代もさまざまだし、べつに若ければよいものではない)。●SF大会の学会みたいな開催方式に関しては、美術関係の知り合いが興味をもっていた。わたしも展示にすこし関わることになりそうなOさん/Nさんともその話をしたし、学芸員のMさんは実際に会場に来てイベントを見学していた。●パネルに登壇して自分もいろんな資料を見返したりして勉強になったけれど、なによりよかったのはほかの発表者の作品を事前に読み返して改めて面白い!と思うに至ったことだった。直前まで血眼でKindleをめくっていたら、通りかかった創作講座のNさんに怪訝な顔をされた。

2023/8/5

●SF大会1日目。ゲンロンのパネルや、作家のメンタル事情のパネル、その他を見る。夕ご飯はひさしぶりの皆さんとお会いできて楽しかった。近況を話す。人生がかわっていく。●猿場さんからポメラDM250を借りた(いま改稿中の作品に変な文字ばかり出てくるのでポメラで書けないらしい)。ポメラをPCに繋いだうえでドライブからgit pushできるかな?というのがわたしのもっぱらの関心ごと。

2023/8/4

●うさぎのテキストの原稿など。金井美恵子分析をするフィクショナルなテキストを書いた。これまで書いてきたこの手の批評的フィクションの数も結構多くなってきたと思う。●引き続きスマホをあまり使いたくなくて、なんとなく冷蔵庫にしまっておいたら、夕方急にでかけることになって焦った。冷え切ったスマホはゆっくり温度を戻さなくては結露のために故障するのではと思ったのだけど、急いで出かけなくてはいけなかった。タオルに包んでいたりしたら案外早く温度は戻ったので、戻ってしまったものはもうどうしようもないから、そのままひどく蒸し暑い屋外に持ち出した。結果論だけど壊れなかった。●目黒でりさ子さんと落ち合って、夕飯の時間帯なのに、急にかわいいカフェに出かけ、すごくきれいに盛られた桃とメロンと卵をたべた。互いの生活や制作の話をしながら晩ご飯代わりに天使のたべものみたいなフルーツをたべて、幸福だった。心は天使だけど体は地上の存在なので、家に帰ってからいくらか食べ直したけど…。

2023/8/3

●以下、手書きの日記の引き写し。●スマホを置いて家を出る。どうも頭がぼんやりとして、画面の見過ぎかもしれないと思ったためだった。出かける支度のついでに少しお菓子をたべると、頭のぼんやりはぴたりとおさまった。そういえば昼に食べたつもりのものは野菜ばかりだったかもしれない。それでもスマホを持たずに出かけることは近頃めったになかったので、紙とペンとプリントアウトした原稿と何冊かの本だけを持って、出かけた。いまわたしは喫茶店で紙にこの日記を書いている。あとでnoteに引き写すつもりで。●まずはじめに気づいたのは時間がわからないということだった。時計をつける習慣がいつからかなくなっていたから。一応、ある時間までに帰る必要があったから、少し困った。家を出る前に時間を確かめなかったから、いまが何時なのかもわからなかった。空は、夜になる直前くらいのほの明るさだったから、まだ夏場だし、夜七時くらいだろうと思った。と中で時計を見るためだけにコンビニに寄り、予想とほぼ違わず夜七時過ぎだったことを確認した。あと二時間くらいで帰りたいのだけど、時間をどう確かめたらいいのだろう。オムライスを食べるために喫茶店に行くと一階にも二階にもおそらく時計はないようだった(なんて非文明的!)。店員に時刻を聞こうかとも思ったけれど、それではあまりにばかばかしい客だと思われるのではないかと思った。代わりに、注文を取りに来てくれた店員に、このお店は何時までですか、と訊いた(この質問なら変じゃないと思ったから)。店は夜十時までだと彼は答えた。できれば九時半くらいには店を出たかったから、期待からはややずれていた。それにしても、自慢ではないけれど、わたしはわりあい時間にルーズな人間なのに、これほどまでに急に時間のことばかり考え始めるとはいったいどういうことだろう。●引き写し終わり。なんと他愛のない日記なのだろう…。書いている間は、わたしけっこう漢字もすらすらと間違えず書けるのね、などと思っていたが、見返してみればこの程度の漢字は書けて当然である。

2023/8/2

●わたしの文章を見ると「みんなのうた」の「メトロポリタンミュージアム」という歌を思い出すと言ってもらって、これの初出が大貫妙子の歌うみんなのうたの映像であったことを初めて知った。やくしまるえつこのカバーは何度も聞いたことのある曲だった。●無目的、というタイトルの本を読んでいる。なぜかヒーリング効果のある哲学読み物である(正確にはトム・ルッツ『無目的: 行き当たりばったりの思想』青土社)。

2023/8/1

●すべてを洗い落とすような雷雨。猛暑か豪雨しかない日々なんて世も末よ、と思う。気圧のせいなのかなんなのか頭が痛い。●8月6日を前にして、バービーとオッペンハイマーの低俗な問題が起きてしまい、わたしのなかに根付いている喪の感覚がゆるやかに痛むのがわかった。あらゆる死者に哀悼可能性がひらかれているべきであることは前提としたうえで、ひとりが抱えられる喪の広さに限界があるときに、東日本大震災でまったく揺れをおぼえず、阪神淡路大震災を経験していないわたしが、喪の感覚と接続できるのは結局のところものすごく昔にさかのぼる8月6日のことだけのようだった。わたしにたまたまそれが根付いたのは論理的なことではなくてなりゆきにすぎないのだが、喪の感覚がなにもないよりもなにかあることは恐らく生にとっても重要なことだ、と言ってしまうと喪をなにかに役立てているように聞こえておかしな話になってしまうけれど。死者の不在の世界になど生きたくない、それでは単に世界がわたしから遠ざかるばかりだからだ。

2023/7/31

●みなとみらいで花火があると聞いて家をとびだしたら、電車を乗り間違い、そのうえ運行が乱れていて、結局みなとみらいに着く前にすごすごと引き返した。同じ駅の改札から出ようとするとエラーになり、優しい駅員のお兄さんが入場料だけの清算で済ませてくれた。結局、家で、長岡花火大会のYouTubeを見た。長岡花火大会はいつ見ても楽しい(YouTubeでしか見たことないけれど)。●遅れた原稿をすごい速度で書き進めている。

2023/7/30

●古本屋で「ひまわり」という40/50年代の少女雑誌の復刻版を買う(村岡花子が文章を書いていた。初めて読んだアンの翻訳は村岡花子訳だった気がする)。平成狸合戦ぽんぽこを観て衝撃を受け、天命反転住宅の日程調整をちょっとし(ぜんぜん声をかけられてない)、遅れている原稿をする。

2023/7/29

●用事があって炎天下の真昼間にでかける。消耗して帰宅すると、家にはしっかり冷やされた素麺と麦茶が待っていて(!)なんだか、食の快楽にほだされてしまったようで、危険な感じがした。だれかが、夏の冷たい麦茶のうまさはどんな美酒をも上回ると言っていたけれど、たしかにそれは正しいのかもしれない。ほてった体で食べる冷えた素麺は、細緻な美食とも、ジャンクフードの快とも異なるところに感覚をつれていく。こわい。

2023/7/28

●人工生命学会ALIFE2023の、テッド・チャン&アニル・セスの対談を見る。SF大会の企画『国外の土地を描くSF:台湾とチベット』の準備。

2023/7/27

●炎天下、屋外プールに出かけた。ぐるりと一周、流れのついているプール。自分だけでは浮けないので、ビート板を抱えてぷかぷかと流される。プールなんていつぶりだか思い出せないくらいだけど、案外普通にたのしかった。最近の?プールはビキニみたいな水着でなくても、擬似ラッシュガードみたいな水を吸いにくい服を着たままで入れるみたいなので、それも楽でいい。本気の真夏なのでちっとも寒くなく、快適だった。帰りぎわ、KFCでジンジャーエールをごくごく飲み、チキンをたべる。●塩素のせいか紫外線のせいか、両眼がひりひりになり、次の日には治った。汗をかいたのか塩分がほしく、晩ご飯にはカップラーメンとトマトの卵炒め、とうもろこしをたべた。まるで夏!

2023/7/26

●運転免許証の更新のため鮫洲に行き、あまりの気温の高さに体調を崩す。とんでもない暑さ!●体調が悪いので、aikoをききながら、またひたすら餃子をたくさんつくり、冷凍した。餃子は白くて丸くてかわいい。冷凍すると尚更まっしろになり、かわいい。

2023/7/25

●主に書きもの。●夕飯に餃子をつくる。餃子をすばやくたくさんつくるのにはコツがあるのだけど、コツがわかるとぐんぐんつくれる。

2023/7/24

●カフェインのためのコーヒーなのか味わいのためのコーヒーなのかつねに選択を迫られる。おいしくなくてもコーヒーは飲まなくてはならないけれど、おいしいコーヒーが飲めるとうれしい。●書きものをはじめるときには、いかなる夏場にも煮込み料理をつくるべきである。ぐつぐつ……。

2023/7/23

●MさんとSさんといっしょに近所のイタリアンで食事をする。バシュラール全集はこの世にあったほうがよいのか否か、小池寿子先生は美術史=小説を書くのか、といったことを勝手に話す。バシュラール全集はわたしの歪な調べによればすべてのひとが必要としていることになっているけれど、サンプル数が3人くらいしかいない。じっさいのところ、バシュラールの人気度はどれほどのものなんだろう。バシュラールには非専門家的な愉悦がみちているけれど、そのせいで学者から敬遠されたりするのかしら。「空と夢」の巻には宮崎駿が推薦文を書くべきだというのがわたしの考え。

2023/7/22

●京都から帰っていた奥泉さんと連れ立って、東京オペラシティの野又穫展と、大岩さんの「実効」展のプレイ会へ。旅人みたいに楽しい一日。幡ヶ谷のSunday Bake Shopで飲んだコーヒーがとてもおいしい。

2023/7/21

●これまでジブリをあまり観てこなかったので、TSUTAYAでジブリのDVDをたくさん借りて順番に見ている(きちんと通して見たことがあるのは、劇場で見た「千と千尋」「ハウル」と、レンタルDVDで見た「マーニー」だけで、それ以外はなんとなく見たことはあるけど家や待合室のTVに流れているのを切れ切れに……というような感じだった。「ハイジ」はたぶん幼稚園に通っていた頃にVHSでぜんぶ見た気がするけれど、ジブリ作品には数えられないらしい)。●「風立ちぬ」と「紅の豚」。ともに宮崎駿監督の飛行機/戦争の話(戦闘機は好きだけど戦争は嫌いというコンフリクトが通底する)。フィクションとしての強度や完成度は「紅の豚」のほうが堅固のように思った。飛行の原罪を〈豚〉の視覚性に担わせることがアニメーションの技術と合致している。「風立ちぬ」ではおなじ原罪が〈女の子の死〉によって象徴されているのだけど、象徴と視覚ならば視覚に乗せられているほうが俄然わくわくする。アニメーションだもの。●「ハウル」も再度見た。〈呪い〉によって〈変身〉することがこれほど効果的にあらわしうるメディアがアニメーションを措いて他にあるかしらと思う。世界の動き(戦争に関する事情)のわからなさを傍に置いたまま、ロマンスによって話が閉じていくのも強引だが明快でたのしい。●「耳をすませば」は、子どものときに見なくてよかった。きっと聖司くんと出会えないことに絶望してしまうだろうから(とはいえ、結局のところホグワーツに行けない絶望だけですでに十分すぎたのかもしれなかった)。リアリズムのお話だけど、飛行のモチーフがところどころに出てくるのが宮崎駿的。非日常へと作品を導いていく動物は、ここではネコが担っている。●高畑勲作品は「おもひでぽろぽろ」と「かぐや姫」を見て、いまで言えばセクハラと言いたくなるような困難が一応のところ理想化されないまま描ききられていることに普通にびっくりしてしまった。いずれも初潮の描写があり、それを知って他人が勝手に喜んだり揶揄ったりするので、心底かわいそう。この手の共感的な憐憫をフィクションを見て感じたことがなかったので新鮮だった。「かぐや姫」で月からの迎えが来るシーンの天国的な描写はちょっと箍が外れていてめまいがする。

2023/7/19

●時間SFは世界のギミックではなく語りの技法である、みたいなことを何度か考えたことがあり(「君たちはどう生きるか」も世代を超えたコミュニケーションのための時間SFである)、そうだとしたら時間に関するお話ならばSFでもリアリズムでも語ることができるはずである。過去について言及するとき、順序よくカメラで語るのならばSFのほうがよく、順序を狂わせながら追憶の叙述をするのならばリアリズムのほうがよい。ということを前提として、これから書くかもしれないお話の事実関係と語りの時間とSFギミックの有無のパターンを網羅的に書き出してみたら、追憶もあってSF的な異常な時間の流れも含むハイブリッドが一番面白いかもしれないと思った。

2023/7/20

●宮崎駿「君たちはどう生きるか」に関していろいろなひとと感想を言い交わし、なんだかコメントしづらい映画だなあと思う。ジブリに詳しすぎるファンダムのせいなのかもしれないが、それだけではなく、確信的にセルフオマージュを繰り返した作品そのもののせいでもある。この映画に見て取れる象徴性というのは少なくとも4つほどのレイヤーがあって、作品内在的に読めるもの、古典的な先行作品に対応するもの、ジブリの他の作品と照応するもの、そして作家自身や周辺人物の半生になぞらえられるものなど。象徴性はべつに悪いものではないし、ものによってはわたしはけっこうメタファーを愛しているけれど、これほどまでの多彩かつ悪意のない寓意に満ちていると答えを探せば探すだけ焦点がぼやけていってしまう。●純粋なアニメーションのよろこびのことは素直に話しやすい。それはつまりあなたの体がそのアニメーションをどう受け止めたかというグルーブの話に過ぎないのだけど。最初の空襲の描写がスペクタクルだと言ったひとがいた。わたしは、異世界に入り込んでいくときの集合体恐怖的に膨れてくる生き物たち、それを打ち消すような絵画的な平面の世界のどちらもが好き。ジャムをたっぷりぬったパンを食べるシーンが好きというひとは何人もいた。世界が崩壊していくシーンが圧巻だったという人がいた。●時間SFとしての整合性について話すのもばからしいけど悪くない、というか潔くて愉しい。なぜ主人公の母は主人公が自分の息子であることを子供の頃から知っているのか、といったようなどうでもよい問いに答えてみること。キリコはいったいいつからいつまであの世界に留まっていたのか、キリコはじつは主人公の祖母ではないかなどと想像してみること。●それにしても、象徴性が氾濫しているせいでだれもお話について話していないような気がしていて、それが面白い。解釈ばかりしていて誰もお話を読んでいないようなところがある。シナリオとしては省略が多いが、お話の全体は明快で、母親との関係と創作行為の継承の成否が語られる。創作行為が女性性の嫌悪および観念的な胎内回帰願望と一体化しており、主人公は現実的な母と和解することによって創作行為とは決別する。

2023/7/17

●すばらしい朝食を目の前にしていながら、眠気のあまりお腹に食べ物が入らない。メインは、卵とカポナータのココットを選んだ。付け合わせにシャルキュトリー(グリルの焦げ目のくっきりとついたベーコンとソーセージ、マスタード)と温野菜(ブロッコリー、トマト、かぼちゃ、じゃがいも)。サラダとミネストローネ、ミニクロワッサン、牛乳にオレンジジュース、コーヒー。美しい色をしたシャンパンも注いでもらったけれど、飲んだらひどく体調にさわりそうな気がしたので飲まずに残してしまった。●バスに乗って洞爺駅へ、そこからJRにのってうたた寝をしながら新千歳空港へ。空港では食欲が回復し、ちいさな海鮮丼(かにのほぐし身と、帆立と、雲丹ののったもの。お味噌汁とたくあん付き)を食べる。お土産屋だらけのフロアをぐるりと回り、500円もする採れたてとうもろこし(なんとかゴールドという名前の品種)に心惹かれ、買ってしまった。するめそうめんをこよなく愛するひとのためにするめそうめんの大袋も買う。ミニサイズのハスカップアイスを食べ、ぎりぎりの時間に飛行機に乗る。●成田空港からみなとみらいへ行き、夕方、宮崎駿「君たちはどう生きるか」を見て、家に帰った。

2023/7/16

●東京は猛暑だと聞くのに、こちらでは10度以上も気温が低い。寝坊したので、ひどく混乱しながら、ひとりで朝食ビュッフェに滑り込んだ。たっぷりのコーンスープを1杯、温泉卵1つ、小さなパン・オ・レザンを1つ、ミニトマト3つ、小さな新じゃがいもを2つ、薄切りのボローニャ・ソーセージ1枚、ケッパーの添えられたスモークサーモン1切れ、オリーブのピクルス2つ、ちいさなモッツァレラのバジルソース3つ、エビと野菜のクスクス少し、帆立といくらのゼリー寄せ、大根のお漬物、茄子の煮浸し、コーヒー2杯、ミルク1杯、をお皿にとって、温泉卵とパン・オ・レザン以外はすべて食べた。●タクシーで洞爺湖畔まで降り、うみねこだらけのフェリーに乗って中島まで渡った。やけに鬱蒼とした島の森を延々と散策し、ブヨに噛まれたところが腫れ始めたのは丸二日経ってからのことだった。湖畔に戻って、混み合っていた洋食屋を見送り、別の店でまたスープカレーを食べた(牛すじのスープカレー)。安田侃や佐藤忠良などの彫刻の設置された湖畔を散歩し、アイスコーヒーを飲み、セイコーマートとセブンイレブンで夕食を調達してからホテルに帰った。●安田侃のひらべったくてまるっこい彫刻の上には子どもが2人座っていて(おそらく姉弟)、しばらくずっと座っているので、写真を撮りたいから少しだけ退いてほしいとお願いしたら快く退いてくれた。わたしが写真を撮り終わると、また2人は彫刻に座った。●夜、コンビニごはんを食べてお風呂に入った後、お絵描きゲームとUNOをしていたら2時を回っていた。翌朝は7時に起きなくてはいけないのに……今朝の寝坊がしょんぼりだったので、アラームをいくつもかけて眠った。

2023/7/15

●JR函館本線で、札幌から洞爺駅へ。洞爺湖からさらに送迎バスに乗って山道をゆき、ウィンザーホテルへ。洞爺湖サミットの開催された豪勢なラグジュアリーホテルで、湖畔の温泉街からも完全に孤立していることからサミット開催の際はセキュリティ面でも評価されたという(裏を返せば、殺人が起これば密室殺人事件になってしまうということ)。タクシー・ドライバーによれば、当初は道路ではなくゴンドラでのみ行き来可能にするという信じがたい計画もあったらしい。湖畔であるばかりか標高が高く、ずっと霧が出ているかわりにきわめて涼しい。まごうことなき避暑地で、いまホテルのある場所にはかつて美空ひばりの別荘があったらしい。●諸事情で経済状況は悪化しているので、こんなに素敵なホテルに泊まることは少なくともあと数年は不可能だろう。●ホテル内のレストランでは食費が青天井になるのではないかという危惧はなかばあたっていたけれど、それでもアラカルト注文が可能なお店を探し当て、ほぐしたカニの身と帆立とトマトのたっぷりのったピザを食べた。ホテル内の温泉には露天風呂があり、熱い湯には入れないわたしも長時間浸かっていられるくらい柔らかい湯の満たされた湯船で飽きずぷかぷかとし、外気にたちこめている霧の色をずっとぼんやりと見ていた。●前に温泉に行ったのはロカストの福島旅行と福島SF大会のときのことだったと思う。ロカストではひどく熱くて炭酸の泡のたったお湯に入り、それから塩のきいたヒメマス定食を食べた。SF大会の晩には雨が降っていて、ざあざあ音がするなか露天風呂に入っていた。昔は公衆浴場が苦手だったけれど、最近はふつうに愉しんでいるかもしれない。●ホテル内のバーでショートカクテルを飲んだらふらふらになり、翌朝寝坊した。

2023/7/14-2

●午前中、『シュルセクシュアリティ』を読む。●午後、飛行機に乗って北海道へ行く。去年か一昨年にも2回ほど行ったので(ロカストの北海道旅行と、札幌の観光旅行)、ここしばらくで3回目の訪問。夜、すすきのでスープカレーを食べる(チキンのカレー、夏野菜トッピング、ココナッツのスープ)。その晩、AirBnBの部屋に泊まる。●寝る前に、日本の歴代テレビドラマ視聴率ランキングと、歴代映画興行収入ランキングをクイズにしたらけっこう楽しかった。テレビドラマランキング、2位が「水戸黄門」で3位が「半沢直樹」なのはわかるが、1位は「積み木崩し」(1983)という実話をもとにした不良少女ものらしい。映画のランキングはまだ記憶に新しい「鬼滅の刃」が1位で、2位をまだ2000年の「千と千尋」が守っている。3位「タイタニック」(1997)、4位「アナ雪」(2014)、5位「君の名は」(2016)、6位「ハリー・ポッターと賢者の石」(2001)、7位「もののけ姫」(1997)……と続く。

2023/7/14-1

●今朝の夢。わたしはなにかに追われていて、あちこち逃げた末に大きな邸宅に迷い込み、キッチンのテーブルの下に身を隠した。しばらくすると、その家の住人であるらしい著名な映画監督が帰宅した。映画監督はわたしの侵入を怪しまず、むしろまるで客人みたいにもてなし寛いでから、そのまま眠りに落ちた。映画監督が寝ている間に、わたしは家を抜け出した。夜が明けて、何事もなかったかのように高校の制服を身につけ、学校にでかけた。学校の校庭ではみながバスケットボールをしていて、わたしはバスケをしたくないので渡り廊下からそれを見ている。いつしか映画監督が校庭にあらわれ、学生たちはそれを歓迎した。校庭で人に取り巻かれた監督の目が、渡り廊下のわたしを掠めた。「そうか、君のことが誰だかようやくわかったよ」と監督がぼそっとつぶやくのが、遠いはずなのによく聞こえる。●さいきん夢のディテールが豊かすぎて、このまま夢のなかに生きることになるのかもしれない。

2023/7/13

●パラノイア的な読解の欲望というのはどこから来るのだろう。辻褄を合わせながら全体をまるごと飲み下すこと。わたしはそういう気質が強いことはわかっているのだが、なんとなくろくでもない気質のひとつであるような気がする(役に立つことも多いけれど)。そもそもいくらパラノイアックになっても追いつけない全体に世界は満ちているというのに(書物だけでいってもたくさんありすぎる)。●今朝の夢で、わたしは家族といっしょにロンドンにいた。父の仕事のために移り住んだというような事情があるらしかった。それならば(留学生という脆弱な身分ではなくいまやわたしは駐在員の子女なのだから)どれほどのポンド高・円安でも生活を立ち行かせることができるだろう!という謎の安心感のもとで街を歩む。2ポンドで売られていた、オレンジとグリーンの果物の薄切りパックを買う。イギリスってなぜか果物だけは安いわよね、と母に話しかけながら。

カリントンは、サドのことを「どうしようもなくつまらないポルノ作家で、革命的なところなど少しもない人物」といっていた。

『シュルセクシュアリティ』第3章: 革命と性

2023/7/12

●「「無断と土」を読む:「いぬのせなか座」関連文献の読書会①」を収録、公開。「「生にとって言語表現とはなにか」を読む:「いぬのせなか座」関連文献の読書会②」を編集。翌朝公開。●ミラン・クンデラとりゅうちぇるさんの訃報を聞く。トランス女性差別こそ女性差別の究極の形であるという明白な事実がどうして共通了解とならないのだろう。

2023/7/11

●引き続き、あらゆるひとびとが、思いのほか優しい。●『シュルセクシュアリティ―シュルレアリスムと女たち 1924~47』を半分ほど読む。学校の授業で教わるようなシュルレアリスムの正史の裏側が驚くほど克明に浮かび上がり、非常に愉しい。わたしは駒場でブルトンを中心とするシュルレアリスムの歴史を一通り教わった記憶があり、ものを知らないなりに、さまざまな往時の雑誌や映像資料をまじえた時代の素描にわくわくしたものだけれど(星埜守之氏の授業だった)、さらにその奥を覗き見ることの果てない愉悦。●(とても勉強になる本だけど、伊藤俊治氏による訳者解説がきわめていい加減だった。この本の紹介にあたり、シュルレアリスムにおいては女性がファム・ファタルとして大きな役割を果たしたという(明白すぎる)事実を述べたてる神経がしれない(本書においてはファム・ファタルのイメージと相剋しながら創作する女性作家の戦略と力学こそが述べられているのだから)。じっさいは共訳者である長谷川祐子氏だけが翻訳にあたっていたのではないかとか、不適当な邪推をしてみたくなってしまう。)●ブルトンの評伝も改めて読みたい。

2023/7/10

●あらゆるひとびとが、思いのほか優しい。くたびれている。

2023/7/9

●スイカバーのほうがスイカより美味しい。なぜならスイカの爽やかさを過ぎ越して夏が際限なくびしょびしょで、暑いから……。●駒場で、表象文化論学会の音楽批評のパネルを見た。伊藤さんの発表によれば、コレットの夫ウィリーは特異な言語戦略を持った批評家・作家であり、女性を装い、ゴーストライターならぬゴーストリスナーによる言葉を編集しながら演奏会評を連載していたのだという。その方法は素直に面白いと思う一方で、食えない奴という印象も残り、コレットとの関係についても気になる。●朝に見た夢は二本立てだった。①電車に乗っていると床の中ほどに、わたしの首とわたしの体が横たえられている。わたしは自分のからだを抱え持つほどの腕力を持ち合わせてはいないので、後で引き取りにきてもいいですか、と念のため車掌に確認してから、自分の骸を放置して電車を降りた。近所のスーパーで刺身を買おうとすると、中高の同級生のKが大根を切って刺身のつまにしている。彼を手伝うことにして、わたしは大葉を細切りにした。手伝いを終え、家に帰ってもだれもおらず、どうやって骸をとりにいけばよいかわからない(いま思えば、Kに助けてもらえばよかったはずだけど)。②美大の卒展で、わたしの小説を参照してなにか作品をつくったひとがいるらしいと聞いて、それならば見に行かなくてはと思い、でかけた。広大な会場を地図を持って見て回るが、地図に振られた番号と実際の会場の様子がちっとも一致しない。作家仲間のHさんとすれ違い、彼女は「咲子ちゃん!作品メッチャヨカッタヨ!」と晴れやかに言いながら去っていく。迷い込んだ広い部屋の天井に、わたしの名前がクレジットされていた。その部屋で上演されていた映像を一応見たけれど、まったくわたしの作品は関係ないように見えた。●架空の小説の夢を見ることはほとんどないのに、架空の展覧会を夢見ることがよくあるのは、得なのか損なのかよくわからない。文字としての小説の夢を見ることはよほど追い詰められたときしか、ない。夢は言語よりもイメージにより強く結びついているようだ、というだけのことだとしても。

2023/7/8

●夢でカラフルな月を空からはずした。そんなことより、おしゃれな河童に出会いたい。●あるラジオを収録し、なぜかひどく疲れてしまう。

2023/7/7

●キリ&スティックはおいしい。キリ&スティックしか食べたくない。●矢川澄子ベスト・エッセイ収録の「不滅の少女」の章の冒頭に付された、矢川のセルフ・ポートレート。くるりとまるまったマッシュルーム・カットの髪型に、はっきりとした、どこか子供っぽい目鼻立ち。痩せたからだの上半身をひねってこちらに向け、組んだ左脚を右に(つまり写真の左の側に)まわしている。膝よりもだいぶ短いワンピースは菱形格子の柄で、両肩のところで布が結び合わされ、胸にさげたカメラを細い左手がささえている。恐ろしいほどの清潔さ…。●メールを書き始めるときに「○○さん、」と読点を書き入れるひとは、「Dear ○○,」とメールを書き出すことに手が慣れているひとなのだと察しがつく。わたしも以前は読点をつけていたし、読点のついたメールは似たような状況を経験したことのあるひとばかりから来る。英語の手紙の書き出しで名前の後にカンマを打たないのは恐らく明白に誤りだが、日本語のメールはカンマがあってもたぶん誤りにはならない。だからどうということもないのだけれど…。

2023/7/6

●伝統的に日本語では女性のほうが文章がうまい、と放言するところから話を始めてみる(恐らく日本語だけでなくほかの多くの言語でも同様で——文体には中心と周縁があり、概して美は周縁のほうにあらわれるから——なぜか例外として男性作家ばかりを生むドイツ語の文学が挙げられる、とさらに根拠のないことを放言する)。男もすなる日記といふものを女もしてみむとてすなり。そして男性作家が文章のうまさによって生き残るために採用する方法のひとつの帰結として、文体は幼児化する(男性の言葉/身体から退却する)。実際、幼児化の系譜というものが大江、中上、小島とつづいているのである…ということを軽々しく放言できる。男性性からの退却方法は幼児化だけでなく、人間をやめて猫になったりすることもできるわけだけど。男性の言葉/身体を持っているにもかかわらず文学にコミットするためには何らかの戦略が必要である、というのは今に始まった話ではない。●ほかの多くの芸術とちがって文学の書き手において比較的ジェンダーのバランスが均衡する理由としてわたしはなかば本質論的に聞こえてしまいそうな〈端的に女性のほうが文章がうまい〉が結構当たっているのではないかと思っていて(もちろん本質論ではなく構造的にそうなっているにすぎないが)、一方で絵画においてそれが歴史的に男性優位であることの理由はまなざしと語りという方法の違いによるのではないか、というところまでぼんやり話したところで、キヨスクのシャッターが信じられないくらい耳障りな大音量の軋みをあげて閉まっていき、頭がくらくらとしびれ、よくわからなくなった。キヨスクのシャッターには油をさしたほうがいい。

2023/7/5

●ある条件下でなにかを視ながら目のあらぬところに力をこめると、視差の調整がおかしくなって分裂した像が浮遊をはじめる。うれしいこともあるが、憂鬱なことが続いている。きょうも頭が痛いのに、コーヒー豆を買いそびれている。●『兎とよばれた女』を読み終えると、それがひどく痛ましく、矢川澄子についてもっと知るべきだと思った。ある時代の女性の表現者のなかで、もっとも傷を負いやすいかたちの心を持って生まれてしまったひとなのかもしれなかった。その心理に沈潜してみたいようにも思った。死後刊行された矢川のエッセイ集『妹たちへ』の表紙には、内藤礼のあの極小の枕の写真が用いられている。

 それにしてもやさしさ。これは男女の魂に共通の問題なのでしょうか。それともたまたまかぐやに貸し与えられた女体にひそむ属性でしょうか。
 性別とはそもそも魂の次元にまで及ぶものなのでしょうか。それともあくまでもうわべの形式上のことで、本質とは何ら関りのないものなのでしょうか。
 考えようによっては、魂とはもともと両性具有的なもので、あたかも水の器に従うように、たまたま入りこんだ現身の構造に即し、男女いずれにも変幻可能なのだという解釈もなりたちます。
 いずれにしてもかぐやの無節操なまでのやさしさに、わたくしは首をかしげずにはいられません。かぐやははたして、女=だから=やさしかった、のか。
 いったいわたしはもともと性というものをもちあわせているのか。これはかぐやを終始とらえて離さなかったひとつの疑問でした。女の魂だからこそ、仮りの栖にも女体がえらばれたのか。それとも?

『兎とよばれた女』

2023/7/4

●カフェイン切れのような頭痛がしている(実際にカフェイン切れなのだろうけれど、豆を切らしている)。さくらんぼが傷み始めていたので砂糖で煮てコンポートにするとかなりおいしい。諸般の事情で家にさまざまなくだものが眠っている。かれらが冷蔵庫のなかで朽ち果てることのないように、くだものの細胞の速度でわたしも生活をしなくてはならない。●新婚旅行から帰ってきたばかりのIさんと通話で打ち合わせをする。●幻想文学の書き手・読み手のジェンダーについてふと考えるけれど、数値がわからないのでなんともいえない。体感的には、もともと男性作家の手によって女性が理想化されることで著された文学が、女性の側から倒錯的に欲望されて女性的・少女的な感性のもと再話されているという感じがする。その受容のされ方というのが、以前ここにも書いた(ような気がする)女性シュルレアリスム作家のシュルレアリスム受容と同じで、さまざまな形態を持っているはず。●年をとることは女性であることからの解放という感じがして、そのせいで30歳に近づくことがうれしいのかもしれなかった。わたしは早くふかふかの白髪の老婦人になりたいと思っている(早死にしたいという意味ではない)。

2023/7/3

●込み入ったメールを何通も書き送り、くたびれる。●夕飯に、ゴーヤの卵炒め、トマトの卵炒め、傷みかけていたメロンと生ハムのサラダ。

2023/7/2

●誘われて、浅田真央のアイスダンスを見に出かけた。打ち続くスペクタクル。幻想即興曲の群舞がすごくよかった。スケートはひとに飛翔の夢を見せる。これは、バシュラール『空と夢』にそのまま書き加えることができてしまうようなことだろう。わたしの幼馴染(家が歩いて5分くらいのところにあった)のMちゃんはいわゆるスケートオタクで、フィギュアスケートの同人誌を発行している。ひさしぶりに連絡をとり、感想をつたえる。●夜、豊崎由美さんの「読んとも」イベントのため下北沢へ。大森さんがゲスト出演している。

2023/7/1-2

●家を丸一日あけていたら冷房を切っていたせいで室温があがり、梅シロップが発酵しかけていた。実をとりだし、煮沸する。ほんとうはもっと長い間漬けておくものらしいけれど、もうあらかた水分が出ているように見えたから、腐ってしまうのがいやで処理してしまった。梅シロップは、漬けておくことで液体に味が移るのではなく、梅から水分がでてくることでつくられるわけだから、長い間漬けておいても味は変わらないように想像されるので、なぜ1ヶ月も漬けておかなくてはならないのかよくわからない(それが一般的なレシピとして確立しているということはなんらかの理由があるのだと思うけれど、でも2週間くらい漬けるだけですでにかなりおいしい)。●いつも最寄り駅までゆくときに必ず通る道に、土井善晴さんのおいしいもの研究所兼自宅があることに気づく。かなりのご近所のようだった。設計者は坂茂であるとBrutusの記事に書かれている。●下北沢に出かけ、服を買う。オレンジと藍色の細かな飛沫が散りばめられたグレーのシャツを選ぶ。変な時間帯だったので飲食店はどこも閉まっており、ようやく見つけたエキウエのタイ料理屋で「夏ガパオ」を食べた。ゴーヤがたっぷり入ったガパオライスで、まんぷくになり、家に帰るなり寝てしまった。●ある原稿を書き忘れていることに気づき、急ぎ構想を練り始める。

2023/7/1-1

●神奈川県立近代美術館・葉山館「野崎道雄コレクション受贈記念 見えないもの、見たいこころ」展。●眼科医の野崎道雄氏より寄贈されたこのコレクションは多数のリヒター作品で知られるが、なかでもデュシャンの《グリーン・ボックス》《トランクの箱》があることに驚く。デュシャン作品を下敷きにした瀧口修造・岡崎和郎《検眼図》がコレクション内の唯一の国内作品だったことからも、野崎氏はデュシャンのある部分に共感していたのでは想像する(野崎道雄コレクションのロゴは、デュシャンの《大ガラス》の検眼図の図像を重ね合わせた形になっている)。一方、リヒターの作品についてはそのサイズが面白い。リヒターといえば展示室が狭く感じるほどの巨大な絵画のイメージが強いが(それはリヒターの作品の方法や巨匠らしさと関連している気がする)、このコレクションにおけるリヒターは選りすぐったように小さく、この小ささは収蔵の都合以上にコレクターにとっての必然だったのかもしれない。小さなリヒター作品の並んでいるところが、ミニ・美術館ともいうべき《トランクの箱》のように思われる(あるいは瀧口修造がローズ・セラヴィと名付けた架空のブティックのことも連想するが、がらくたも含むあらゆるものを個人的な文脈に絡めとらせる瀧口のオブジェのコレクションとは毛色が異なる)。資料展示されていた『シルス』の見開きにあったOverpainted Photographsの絵具は、意外にもシュルレアリスムのデカルコマニーのようにも見えた。●展示を見たあと、葉山館の図書室で、千葉市美術館の2011年の展覧会の図録『瀧口修造とマルセルデュシャン』を読んでいた。巌谷國士をはじめとしたテキストが充実していてとても面白く、手に入れたくなったけれど古書価格は6,000円ほどのようで、以前だったらすぐに注文していたに違いないけれど、倹約の心を身につけることにしたのでひとまずのところ堪える。その図録によれば『瀧口修造1958:旅する眼差し』という刊行物があるようで、それは匣のなかには瀧口の手による旅先の写真や絵葉書などがおさめられているものらしいが、さらにその十倍の60,000円ほどの価格。見るからに美しく、欲しい……。

過去の日記


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