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旅するアロエ

この植物は、なんだか死なないような気がする。いつも窓台に置かれていて、増やすのは簡単。何十本とある新芽から、一本選んで、やさしくつまみ取ればいい。そのうち、どっちが親で、どっちが子だったか、わたしは結局忘れてしまう。わたしは、町にいる知り合いと、マルタ、アグニェシュカ、クリシャ嬢にも株分けしてあげた。陶製の植木鉢や、ヨーグルトやスメタナの空き容器に入れて。わたしのおかげで、アロエは我が家を出発し、旅することができたというわけだ。

「アロエ」(『昼の家、夜の家』オルガ・トカルチュク)

仕事の関係でトカルチュクを再読していた折に、友人のYくんから連絡があった。
引っ越すからうちの植物を整理しているんだけど、なにかいらない?

夏休みのアサガオ以来ろくに植物をそだてたことのなかったわたしは、初心者向けのものがあったらほしい、と控えめに答えた(Yくんの家の窓ぎわにはジャングルのごとく多様で豊かな鉢植えがあり、同様にかれの頭のなかには植物にかんする知識がびっしりと繁茂している。残念ながらそのどれでも引き受け可能というわけにはいかない)。
簡単なものならポトスがいいかも、それかアロエ不夜城、とYくんは手早く的確に提案する。
もちろんアロエ、とわたしは即決する(なにしろ、ほんの直前までアロエのお話を読んでいたところだったから。あとで調べてみると、つる性のポトスもなかなか素敵だったけれど、そのときはアロエのほかに選択肢などないように思われた)。不夜城とはものものしい名前だが、画像検索してみるとなんということはない、いかにもアロエらしい見た目のアロエである。

こうして、アロエは唐突な旅をはじめる。Yくんのうちからわたしの部屋へ。

冷たい雨の降るなか、渋谷のはずれの松濤美術館で待ち合わせをする。Yくんはアロエを軽くて壊れにくい鉢に植え替え、小ぶりの紙袋にいれ、さらにレジ袋にいれたものを、自転車で持ってきてくれた。
要件といえばアロエの受け渡しだけだったけれど、せっかくだから展示も見ようという運びになる。コインロッカーにアロエの鉢をいれて鍵をかけ、作品を見てまわった。雨がしとしと降り続き、ガラス越しの中庭の噴水にしずくの散るさまが美しい。
展示を見終えたあとコインロッカーのところに戻ると、鍵の操作を間違えて引っかかってしまい、扉が開かなくなって、焦る。かわるがわるガチャガチャと鍵を回していると、どうにか鍵がまわり、アロエ(とトカルチュクの本、および貴重品)を救い出すことができる。

その日の午後は、アロエを携えたまま出かけた。
渋谷駅でYくんと別れ、わたしはそこから恵比寿まで電車に乗り、そこでまた駅のコインロッカーにアロエをおさめた。今度はクラシックな鍵ではなく、スマホ内蔵のICカードをタッチすることで支払いと錠前の開け閉めができるタイプ。駅でランチを食べ、写真美術館の展示を見、ガーデンプレイスで一筆箋を買う。動く歩道に乗って駅まで戻り、スマホをタッチし(もちろん引っ掛かりはしなかった)、ロッカーからアロエを取り出す。もう1箇所の展覧会に向かいたかったけれど睡気がきざしたので、傘をさし、重たい鉢を抱えて家に帰る。まだ夕方なのに、たちまちくらくらと眠りにつく。

不夜城としてはあまり美しくないかも、たぶんあまり日に当てずに育てていたせいで——とYくんは言っていた。アロエの美醜の基準ってよくわからないんだけど、とわたしは咄嗟に思ったけれど、たしかによく見れば、わたしのアロエは妙ににょっきりと軸を伸ばし、軸からまばらに葉が伸びている。アロエらしいアロエならばもっと密に葉をつけて、根元から何本も葉を伸ばすものだろう。

それで、わたしはより美しいアロエの未来を求めて、剪定や株分けの方法を調べはじめた。もしもアロエの根元に子株がつきはじめたら、それらを摘んで別の鉢に植え替えてやればよい。アロエの軸が長くなりすぎたら(わたしのアロエはこのパターンだ)、間延びした根元を切り離して、密な上部を新しく根付かせる。要らない葉をむしり、葉を新聞で覆って、切り口部分だけ剥き出しにし陽光にあてて乾燥させる。よく乾かしているうちに、やがて切り口から新しい根が生えてくるのだという。
アロエがいくら丈夫であるとはいえ、やはりあたたかい時期のほうが株分けには適しているらしい。これから寒くなるばかりだから、それまでしばらく待ったほうがよさそうだった。

そもそもアロエをより美しくするだなんて、人間本位の傲慢な行いなのでは、とわたしはついまじめに考えてしまいそうになる。
いつだったか、どこか東京の東のほうにある、きわめて貴重な盆栽をいくつも制作している立派なお屋敷の見学にいったことがある(このときもYくんに連れていってもらったのだった)。人間の生命のオーダーをはるかに超えた時間のなかで丹念にねじまげられ、奇形の白骨のように痩せこけた木々。盆栽とは、見るからにサディスティックな芸術だった。木々を刈り込み、傷つけ、無機物と同化させ、一定の美の規則と生命と偶然性とを相闘わせる。
この美しい残忍さは、殊に旅行者の琴線にふれるらしい。最近読んだ「盆栽」という小説はスペインの小説家グアダルーペ・ネッテルが村上春樹をオマージュして書いたもので、青山にあるとされる架空の植物園が舞台だった。盆栽として縮小された植物の身体感覚がうらがえり、人間の夫婦関係のなかへ陥入する。サボテンたる僕と、つる植物としての妻。相容れないふたりの植え込まれたミニチュアの庭を、園丁ムラカミが世話している。夫婦それぞれの身体は紛いものの植物として観念され、やがて関係は破局を迎える。

けれどもアロエのユーモラスさは、そんなふうに真摯な反省を受け付けない。トカルチュクが書くように、そしてYくんがまさしくその通りだと請け合うように、アロエはとにかくよく育ち、よく殖え、殖えると邪魔になるので乱雑に移動させられる。種子で増えることはあまりないらしく、それだからその株のもとをたどってもなかなか親には辿りつかない。遥か昔から永らえているのかもしれないにもかかわらず、樹木とはちがって首尾よく年齢をかぞえる方法がない。

ひとまず葉を減らしておけばすっきりとするかしら、と思って、下の方の葉を二、三枚、思い切りむしった。白くてしっとりとした軸があらわになり、わずかにバランスは改善したかもしれない。

とはいえ(失礼ながら)、仮にいかにもアロエらしい見た目をしていたとしても、アロエはもとよりさして美しくない。同じ多肉植物であればサボテンのほうが凛々しくどっしりとして、色濃く、つややかである。どのように切り詰めても葉をむしっても、ぐんぐん伸びてしまえばただのアロエに戻る。昔からヨーグルトに入っているなんだかパッとしない(でもけっこうおいしい)ぬるぬるの葉肉、人目もはばからず草むらやプランターにぼうぼうと群生し、むやみに齧るとひどく苦く、手折ったそばからまた生えてくる。刈り込んでもかたちを保つことはない。殖えることと移動することはかれらにとって同じこと。殖えた分だけ株分けされる。死なないまま旅を続ける。サディスティックなアロエなどと書こうものなら、書いたそばから語義矛盾が生じてしまう(だからわたしは、春がきたら迷わずアロエを切り詰めて、束の間のバランスの良さを楽しんでみたいと思う。アロエは無惨に切り刻まれ殖える代わりに、潜在的な旅の切符を手に入れる。いつしかわたしもだれかにアロエの鉢をあげるだろう)。

……というようなことを、アロエを貰った翌日につらつらと思い返していたら、ヘッドホンからふと「アロエ」と聞こえた。たしかに「アロエ」と言っていた。いったい何のことだろうと思い、少し巻き戻して聞き直すと、以下のようにうたわれていた。

傷口にアロエあてた時のつめたさ
そんな恋でした

Lampの新譜だった(『一夜のペーソス』収録の「八月のカレンダー」)。わたしはまだそのアルバムに深くは触れておらず、そのときはただアロエと聞こえたことが嬉しかった。アロエのことが歌われた歌が、この世にいったい何曲あるだろう。
嬉しかったのでヴォリュームをあげて音楽を聴いた。ペーソスと紙一重のユーモアをたたえたベースがぽこぽこと鳴っていて、軽薄な感じが、かわいい(だいたいアロエをつかって手当をする傷なんて、もとよりそんなに深刻なものじゃないでしょう)。

アロエは痛みをてろんと包みこむ。透明な果肉が熱を吸い込み、皮膚のほてりを和らげる。アロエは夏の暑さにつよい。致死的なまでに輝く陽光を吸い込んでは増殖し、増殖することで旅をつづける。わたしはアロエの音楽を聴いている。

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