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MIMMIのサーガあるいは年代記 ー15ー

      甲午(きのえうま)弥生 ―MIMMIの恵方巻き!―

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 ここでお気づきの方も多いと思いますが、桃子にいつも連れ添っているエリカたち三人娘の姿が会場にまったく見当たりません。どこにいるのでしょうか? 美人ばかりで桃子の影が薄くなるので遠ざけたという演出なのでしょうか?
 いいえ違います。三人娘は銀屏風の後ろにいます。心配と緊張に体を震わせながら潜んでいるのです。大きな毛布とカーペットを抱えながら。

 桃子の記者会見中に、”尻尾”いわゆるチ〇ポが急に生えることを怖れていたからです。桃子がいつものように、大笑いしながら「見てみて! 桃子の尻尾しっぽ」と言ってズボンを引き下げることがあれば、記者会見どころではありません。彼女たちは桃子の発言に耳を澄ませて”尻尾”が生えそうな兆候を感じ取ると銀屏風を押し倒し、毛布と絨毯で桃子をぐるぐる巻きにし、口に猿ぐつわをはめて有無を言わせず運び出そうと備えているのです。三人娘は何度も訓練を繰り返して、15秒もあれば桃子を抱えて運び出せるようになっています。さらに体育館の裏口にはヒロコーがバンの後部ドアを開け、エンジンを吹かして待機中です。”尻尾不測事故”への備えはこれくらいのことしかできないのです。

 桃子本人も三人娘が何かを企んでいるのを知っています。一週間前から三人が、しきりに”尻尾”、”尻尾”と口にするので、反発した桃子は腹いせにニューヨーク市ブロードウェイに面したビルに大きな看板を掲出してしまいました。

 その広告が文末の遠景画像です(作者注:個人が特定できないように目の部分をモザイク処理しています)。

 なんという羞恥心のない行いでしょう。またこの一帯の屋外広告を取り仕切きる広告代理店P社もよく許可したものだと思います。ニューヨーク市当局から何か行政処分を受けないのでしょうか。

 桃子が信じられないような高額の広告費を出したのか、お爺さんの国際的影響力ないし悪名を恐れたのでしょうか? それとも、広告代理店P社が、笑いが乏しくなったニューヨーク市内で、下世話ながらもストレートに話題が取れるお笑いネタを看板にして、炎上商法でも目論んだのかもしえませんね。
 ちなみに、エリカもお婆さんも、桃子が掲出したこの巨大な広告のことは、まったく知っていません。近い将来、このことが発覚すれば、蛸薬師小路たこやくしこうじ邸周辺五キロメートル圏内に、「メリーさんの羊」が大音響で鳴りひびく、騒動になることは目に見えています。

 エリカたち三人は、記者会見の公開の場所で、運悪く桃子に尻尾が生える確率はとても低く、偶然に偶然が重なったような稀な確率だと知っていましたが、最悪に備えている彼女たちはこの低い確率でも恐れているのです。

「……ですから、お爺さまがフィクサーだとか黒幕で、なにかやましいことをしているというのは、皆さまの誤解です。彼は警察でも検察でも国会にでも呼び出されれば正々堂々と応ずるでしょう。何も疚しいところはないのですから」
「疚しいところがないなら、どうして本人が記者会見しないのだ?」
 記者席のうしろの方で、記者の一人が野次のように叫びました。これを天野が注意するためにマイクを口に近づけるのを、桃子が手をかざして止めました。
「何度も言うように彼は、いわれなき批難に憔悴しきっていて、皆さまの前に出られないのです。ご理解ください。
「それに、お爺さまが明確な違法行為、法律違反をした事実があるのですか? その違反行為をあなたたちは批難しているのですか。お爺さまは、警察や検察などから明確な違法行為があると指摘されれば、進んで潔白を証明するために出頭するでしょう」
 ここで彼女は一旦言葉を止めて、悲しそうな表情で体育館内をゆっくりと見廻しました。
「そうです! あなたたちは罪を犯したことが明らかでもないお爺さまを、魔女裁判の被告として引き出そうとしているようなものです。あなたがたの主張はいわれのない言いがかりにちかいのです」
 最後に力強く桃子が断言しました。

「それは記者会見を拒む理由になりません。警察などの呼び出しに応ずるだけでは潔白の証明にならない。潔白であるならみずから証明すべきです。ここに写真週刊誌があります。これは数年前、ある大物政治家が蛸薬師小路邸を秘かに訪問する写真が載って……」
 女性記者が再び不規則質問をしかけましたが、桃子はこの質問を途中で遮りました。

「古くからの友人が相談にきたら相談にのったり、お金を借りにこれれたら無理しても工面してお貸しするのが悪いことなのですか? あなたも、幼友達が深刻に悩んで相談にきたら無碍にできますか?」
 桃子が右耳にはめ髪で隠しているイヤホンにスタッフから「興奮しないで、挑発にのるな」と指示がでていました桃子は無視しました。やはり天才的頭脳をもっているとはいえ、十六歳の少女です。海千山千の記者の挑発にのりかけてしまいました。

「あなただって、あの若くて美男子の○○○さんが相談に来れば、喜んで応ずるでしょう?お金もかすでしょう。それも駄目っていうの? お爺さまがしたことはそんなことなんですよ。
「彼って、あなたの元取材相手で、某省の高級官僚だったそうですね。二人だけのためにマンション買ったって噂ですよね。確か港区○○○二丁目のタワーマンション3505号室ですよね。きっと見晴らしが素敵なんでしょうね。あの方は妻子もおありですよね。ご立派な取材方法ですこと」
 桃子が蔑むように言い放ちました。
「それと……あの方はあなた以外に数人の既婚女性や独身女性と親密な関係というか特殊な関係にあることもご存じですか?」十六歳美少女とは思えないませた発言でした。

 おおっ、という愕きの声と、やっぱり噂は本当だったのか、という声が記者席から湧きあがり、その女性記者を撮影する記者が現れる始末です。当人の女性記者は、青ざめて震えるばかりです。
「そのネタはまだ早い。それにあからさますぎる、匂わせるだけだったはずだ。挑発にのるな。冷静に冷静に」イヤホンがスタッフが慌てて注意しましたが、桃子はせせら笑いました。

「みなさまお静まりください。冷静にお願いします。桃子さんもお気持ちをお鎮めください。また相手を批難するような発言も……」司会の天野がこの混乱した場を取り繕おうと、厳しい声で警告します。

ふん! みんな死ね! Fu*k You! Kiss my A*s!』と、彼女は心のなかで叫びました。Fなんとかと言うのは彼女の口癖なのです。
 憤怒と羞恥で打ち震えた女性記者は、顔を赤らめてパイプ椅子を蹴り倒して外へでて行ってしまいました。

「なんかしらんけど、ここの記者会見ちゅうもんは面白いもんやな。テレビの中継記者会見とはえらい違うのう」
「ほんまや、言論のルールなしプロレスやな。知らんけど」などと、地元のオッちゃんが声高にしゃべります。
「嫌な女やわ。ああいう女が女性の敵っていうんや。ビッチ!」ヒョウ柄のおばちゃんが体育館中に響き渡る声で叫んでいます。
「桃子ちゃん、かっこいい」「桃子お姉さん、頭良い」と地元のちびっ子が黄色い声をあげます。
 一方、記者たちは席を立った女性記者の業界内輪話で盛り上がってしまいました。

 さすがの天野もこの崩壊寸前の記者会見をどう立て直すか、困まりました。
「皆さまお静かにお願いします。話題を変えて、桃子お嬢さま、いえ、蛸薬師小路桃子の不適切発言について本人から説明してもらいます」
「説明もなにも、あれはわたしの発言ではありません。あれはわたしの声ではないからです。それだけです。他に言うことはありません。以上」

「どういうことですか」若い記者がおずおずと尋ねました。
「あの出所不明の女性の声と、いま話しているわたしの声を録音して、音響学かなにか人の声に詳しい専門家に声紋とやらを比較してもらえば、すぐ解決することです。簡単なことです。それくらいは自社でしてくださいね」
「では、あの声は誰のものですか。F*ck、サリンとか戦術核兵器とか喋っている人は。蛸薬師小路邸の女性ではないのですか」
司会進行の天野もこの質問を遮ろうとしません。

「知るものですか。あの音声は出所不明でしょう。どこで誰が録音したかわからないでしょう? 卑劣な盗聴野郎に聞いてみたらいかがかしら。BBCはこの席に来られてる? どうして入手したか、誰が盗聴したかBBCさんに聞いたら、今の質問の答がでるはずです。あれはわたしの声でないことは確かです。声紋を調べれば分かることです」彼女はこう断言すると、眼光鋭く体育館を埋め尽くす群衆をゆっくりと見廻しました。反論やさらに質問をしようとする人間はいませんでした。頬がこけて目に隈のできた彼女の形相はすごいものでした。

「それでは質問に移ります。質問のある方は挙手の上、所属報道機関名もお名前を名乗ってください」天野がやっと動揺がおさまったのか冷静な声でつげました。
「お爺さんを訪れた人のなかで、見覚えのある人はいましたか。テレビなんかでよく見かける人です」国営放送の記者が静かに質問しました。
「そんなことをわたしが答えられると思います? お客の方々にもプライバシーというものがありますよね。たとえばおたくの前支局長を頻繁に見かけたとか……、口にできないでしょう。それに一々顔を覚えていません」
「うちの前支局長もその一人ですか。他に覚えていないんなら、あなたじゃなく、やっぱりお爺さん本人に質問に答えてもらわなくっちゃ、解決しませんよね」と巧妙に切り返しますが、彼が動揺していないとは断言できません。

「ブービー・トラップだ。答えるな!」イヤホンからスタッフの声が聞こえますが、桃子は無視しました。
「あやふやな噂や僻み、悪口を根拠にしてお爺さまを批難するいい加減な取材には、孫のわたし、もっとも捨て子ですが、わたしが代わりに取材を受けてもいいんじゃないですか。その程度の根拠のない批難です」

 桃子も挑発的になってきます。右耳にはめたイヤホンからは「筋書きから離れている!」と重ねて注意されますが、桃子は『Ton of Sh*t!』と心のなかで返事しました。
「そうですね、見覚えがあると言えばあと新聞社のP社とL社の社主の方もよくいらっしゃると聞いてますよ。借りた大金を返さない方もいらっしゃるとか……。全部言っちゃっていいのかな?」桃子は鼻で笑うように呟きましたが、しっかりとマイクは声をとらえてしまいました。
 名指しされた新聞社の記者はそわそわと体を動かし、他社の記者は疑心暗鬼で顔を見交わしました。

「あらら。わたしは大手のテレビ局の人もよく見たわよ。他に与野党の党首や幹部の人も」と、ヒョウ柄服を着たオバチャンが大声で言いました。
「地元の方は、静かにしてください。退出してもらうことになります」天野は再び制御不能になるのを怖れて、オバチャンを黙らせました。
 このオバチャンの声で、疑心暗鬼になる記者の数がさらに増えています。

 こうするなか、ルールどおり挙手して報道機関名と氏名をきちんと名乗って質問の許可を得た記者が聞きました。彼は、県政と市政の広報、地元企業社長の新年カラオケ大会を主に独自制作している地元テレビ局の記者です。
蛸薬師小路たこやくしこうじ桃子さんの、趣味とイチオシアイドルを教えてください。それと将来の希望を」
「そういう個人的な嗜好、趣味はこの会見に相応しくないかと……」と、司会役の天野があきれながら注意します。
 しかし、桃子は大きな笑顔をつくり、普通の十六歳の少女がインタビューに応ずるように、勢い込んで、詳しく答えました。この駄文を書いているわたくしには十六歳少女の趣味について詳しくなく、ほとんど理解できなかったので省略します。

 ですが、体育館の窓の外から身を乗り出していた桃子ファンクラブの人たちは、小難しい話よりこちらを喜び、「桃子さまー」とか「応援してますよ! 僕たちのアイドルは桃子さまだけ」などと叫び、体育館内の地元住民や記者たちの顰蹙をかってしまいました。
「将来の進路になにか希望はありますか?」地元テレビ局の記者が続けて質問しました。

 他の記者たちは、「売れない芸能人の記者会見かよ」、「ヤラセ質問だろう」とか「この方がいいんじゃないか」などと小声で話しています。最後の発言はついさっき自社幹部の秘密を暴露されるかと疑心暗鬼になっていた記者の一人です。

「わたしの進路は、大学へ進学して世界の貧困問題や環境問題を勉強し、社会に少しでも貢献できる人間になりたいと思います。できればNGOで働ければいいな、と思っています」と、桃子の回答はじつに面白みのないものでした。

「それでは次の質問を受け付けます」司会が喋っています。
 銀屏風の後ろに潜んで、桃子に”尻尾”が急に生える危険に備えていたエリカたち三人は、この記者会見が荒れ、その上、及第点ギリギリの桃子の応答ではあるものの、このまま”尻尾”が生えずに終わりそうな様子なので、すこし安堵して手足の筋肉の緊張を緩めていました。

 女性週刊誌の記者を名乗る女性が立ち上がりました。桃子の知らない週刊誌で、記者の個人データも欠けている人物でしたから、桃子も少し身構えてしまいました。
「桃子ちゃんのブログを見ると、風俗店に登録して来月からお店にでるようなことが書いてありました。若い女性の画像も付いていましたが、あれはあなたですか。目の前の桃子ちゃんと、随分違うように見えるのですが」
桃子は、うつむいたままかすかにうなずきます。
「もうお店にはでているのですか」
 彼女は弱々しく首を振って否定しました。

「風俗店がなにか知っていますか。何をするお店か分かっていますか。また、あなたは未成年でしょう」まるで容疑者を尋問する女性検事のような口ぶりです。
「未成年です。風俗店のことは、周りの人に教えられてあとで知りました。今は、間違ったことをしたこと反省しています。あの画像は、その……なんて言うか……、可愛く綺麗に見えるようにアプリで修正したのです。皆さまに迷惑をかけてごめんなさい」と、かろうじて聞こえる声で、鼻水をすすりながら言いました。
「どうしてそんなことをしたのですか。誰かに言われて登録したのですか」
 桃子は大きく首を振ってから、答えました。

「いいえ、誰にも言われてしたことではありません。とってもとってもお給料がよいから、悪い評判で事業が行き詰まっているお爺さまを少しでも助けようと考えてしたことなんです。いまではものすごく後悔してます」

 この質問のやりとりのあいだ、窓から覗いている桃子ファンクラブの会員たちは、嘆いたり喜んだり、怒ったりして反応はまちまちでしたが、うるさいこと限りがありませんでした。また小さな息子を連れて来ていた地元の母親は質問が風俗店の内容に及ぶと、両手で幼い息子の両耳をきつく封じていました。
 とにかく桃子の様子は哀れをそそりました。鼻毛が伸びた地元のオッチャンたちもしんみりと言い交わします。

「ほんま可哀想やな。哀れな話や。そこまでするとは」
「でも、なかなかできることちゃうで。孝行娘が家族を助けるために自分から吉原に身売りする時代劇みたいなもんやな」
「そやな」
「あのお爺さんも、こんな孝行娘をもって幸せやな。羨ましいわ。ウチのグレた娘ときたら……」
「ここまで桃子ちゃんを追い詰めたんは、いったい誰や!」
「ほんまそやわ。追い詰めた奴は人間やないで」
「そやそや」
 ヒョウ柄のオバチャンは、ただただ大声で泣くばかりでした。

 体育館内の騒ぎで会見はまたもや中断してしまい、司会の天野も質問する女性記者もさじを投げたように立ち尽くすばかりです。ようやく騒ぎがおさまりかけると、質問者は重ねて問いましたました。
「これからどうしたいの? 今後の進路はどうするの?」と、彼女は今度は優しい姉のように質問しました。
「さっき言ったような仕事を将来したいな、と思っています。でも、わたし頭が良くないから進学できるか不安なんです」
「以上で質問は終わります」女性記者は、刑事裁判の反対尋問のような終わり方をした。

 館内は、この一連のやりとりで不思議な沈黙が支配しました。天使が降りてきたのではなく、死神がとりついたような昏い沈黙です。ですが、桃子だけはうつむいたまま密かに微笑んでいました。
 この女性記者の質問は、桃子のけなげさと同情を誘ったと確信したからです。ガッツ・ポーズをしたい気分でしたが、あざとすぎるとも思いました。スタッフの誰かが桃子には知らせずに、雇ったサクラか彼女は疑いました。

 次の質問者もフリーの芸能記者でした。会見の前半に不規則質問をした記者のように社会部の記者ではないので、質問内容もお爺さんに不都合な内容ではないことが予想されます。ですから桃子も会見の前半のような緊張と不安はおおかた失せています。
「さっき勉強ができないと言ったけど、得意な科目は何? どんなことを勉強してるの? 嫌いな科目はなに?」
 まるで友人同士の会話のような砕けた口調で男性記者が質問したので、桃子はすっかりくつろいでしまいました。口やかましくて硬そうな大手社会部の記者たちは、もう興味を失っているのがあからさまにわかる態度をとっていました。
「まず嫌いなのは、人文科学系で、歴史や文学、法律学かな。あれって頭の悪いわたしよりもずっと頭の悪い人たちがすることだと思うの。
 いま興味があるのは、ええと……量子力学かな」ここで彼女はしばらく考え込み、久々に顔を上げて元気にしゃべりだします。まるで、とても得意な分野が試験の問題にでたときの、小学生のようでした。

『シェレディンガーの猫』はみんな知ってるよね。彼の方程式も……波動方程式と言ったほうが分かりやすいかな……彼の方程式では時間軸の処理に問題があると言われているけど、わたしはこう考えるの……」
 彼女は記者の一人が芯の比較的太い筆記用具を持っていたの取り上げ、銀屏風を白板替わりに使って方程式を殴り書きしました。

「数学的に処理したらこうなると思うの、彼自身も今の学者も気づかなかったけど、こういう解を導き出せば問題ないはずよ。ここで初めて公表するんだけど」彼女はこう言って、銀屏風全体を数式で埋めてしまいました。屏風の後ろに潜んでいるエリカたち三人は、記者会見とは別に不吉な予兆を感じて、顔を見合わせましたが、何が起きようとしているのか分かりません。ただあっけにとられているばかりでした。

「ここじゃ狭くて、書き切れねえや」と、桃子は筆記用具を投げ返しました。言葉遣いもなんか変ですね。
 館内の誰も反応しません。記者のなかに科学部の人間が一人でもいたら少しは違った展開になっていたかもしれませんね。

 天野が大きく空咳をして「桃子さん、それはここまでにしてください。だれも分からないようですから。質問を続けてください」と、フリーの記者に無理に質問をさせようとする始末です。
「あのう……ブログを拝見すると、先ほどの風俗店うんぬんとは関係ありませんよ。ブロードウェイに広告を出したとか、書いてありましたが詳しく教えてください」桃子の量子力学の話を聞いて、この記者の口調はやたら丁寧に変わり、質問をすること自体が心苦しいような感じになっていました。
「ああ、あれね。あの画像のことね」ここまで口にすると桃子は顔を伏せて含み笑いをしました。「クククッ」と声に出し、それが次第に大きくなります。

 銀屏風裏の三人は、黙って顔を合わせしっかりと頷きを交わしました。
「Go! Go! Go!」
 エリカが叫び、三人は発煙筒の安全ピンを引き抜き三方へ放り投げ、三秒だけ煙幕が拡がるのを待ち、屏風を倒してオフィーリアが桃子に襲いかかります。他の二人はカーペットと毛布を手にしてオフィーリアの左右から桃子に駆け寄ります。
 桃子が突然発煙筒が投げ入れられ記者らが騒ぎ立てるので驚いて立ち上がり、あたりを見廻した瞬間、オフィーリアが両手で薙ぎ払うようなタックルを仕掛けました。タックルというよりも、両手で体を抱きかかえるような形と言ったほうが正確かもしれません。
 オフィーリアは両腕で桃子の両手を封じ、体をひねって倒れ込みました。体をひねったのは、桃子を傷つけないため自らの体をクッションとして、下敷きになったのです。オフィーリアはすぐに両足で桃子の下半身の動きを封じます。

 と同時に、橋本七海が毛布をエリカがカーペットを投げかけ、桃子とオフィーリア二人ともども毛布などに捲きこんでしまいました。手っ取り早く桃子の動きを封じ、有無を言わせずに急いで運び出すのには、これが一番確実であると事前に考えた末のことです。
 下手に桃子に手をかけようものなら、いつかエリカをシステマの体術を使って押さえ込んだように、逆にやられかねません。
これで美女二人の絨毯巻ができあがりました。桃子はオフィーリアと抱き合いながら、恵方巻きにされてしまったのです!

 エリカとナナミンは、桃子の恵方巻きを脇に抱き込んで、体育館の裏口の方へ突進します。煙幕と人間の恵方巻きに驚いて、天野が駆け寄りますがエリカに突き飛ばされてしまいました。有能ですが見かけが貧素な小役人のような彼は、哀れにも肩を脱臼してしまいました。

 煙幕でほとんど視界が塞がれたなかを、裏口まで全力疾走すると、ヒロコーがバンの後部ドアを開けて裏口に半ば乗り入れて待っていました。
 エリカたちが人間の恵方巻きと一体になって車内に倒れ込み、ナナミンが車体を叩くとヒロコーは急発進しました。行き先ははもちろん蛸薬師小路の大邸宅の奥深くです。
 大和平野の桜の名残を、一陣の風が散らします。

(とうぜんつづきます)

桃子の恵方巻イメージ (肉弾三勇士の像)