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蛍おくり【小説】

人間五十年と詠った幸若舞の人生観を三度巡らせた戦国時代の締めくくりを告げるのは、徳川と豊臣、どちらの勝鬨であるのだろう。

【一の蛍】

 慶長五年、長月。

 人質として集められた大名の子弟でひしめきあっている筈の大坂城二の丸は、それだけの数の人が集っているとは思えないくらい静かであった。

 半月前まで出陣の鬨や馬のいななき、武具の音で市民を怯えさせていた大坂城。

城の警護を行う武士以外は皆東へ出払っていたため…だからこその緊張からか人数の割には静まり返り、垣根ひとつ隔てた隣の屋敷からですら、何の気配も伝わってこない。

もしかしたら警護の兵に金子を握らせ隠密裏に脱出している人質も居るかもしれないし、つい先日は二の丸内の邸で豊前の細川三斎(忠興)の奥方が自害するという大事件が起こっている。

 夫の後顧の憂いをなくし存分に戦うための自害と讃える者は、きっと徳川寄りの者なのだろう。そういった者たちの姿も、日を追うごとに一人、また一人と消えていった。

 石田方と徳川方の衝突が時間の問題となった今、張り詰めた静けさだけが支配する大谷家の邸にて伊三と母、そして伊三にとって姑にあたる山手は息を詰めるように暮らしていた。

 緊張の中で夏が終わり、秋分も寒露(二十四節気のひとつ)も過ぎて過ごしやすくなったある夜。

 「奥方さま」

 二の丸のどこに居ても望める大阪城の天守という巨大な篭で蓋をされているかのような閉塞感の中、西軍の妻三人が格子戸を開けて夜の空気を感じながらゆっくりと茶を飲んでいた時分。

ふいっと生垣の間を風が走り抜けて、伊三は薄暗い庭を見やった。

 風は黒い影となって庭に膝をつく。瞬きだったかと勘違いするような刹那である。

 「まあ、佐助ではないですか」

 山手が縁側に進み、『真田家の忍です』と伊三の母に説明した。

 「大殿(真田昌幸)のお指図により、ご報告に参上いたしました。先日、徳川秀忠の軍勢三万八千が上田城を攻撃。対する我が軍は三千にて応戦した次第」

 「三万八千……」

 真田家の主家であった武田家が滅んだ『長篠の戦い』で織田・徳川の連合軍が武田に相対した兵がそのくらいであったと記憶している山手は、思わず卒倒しそうになった。

 武田が滅んだという報せをいち早く受けたことで、山手は当時十歳そこそこの源三郎や源次郎、娘を連れて夫が駐留している岩櫃城まで逃避行を成し遂げる事ができた。それでも道中が安全だったという事はなく、追手…ことに武田を裏切り織田についた穴山梅雪や小山田信茂の手の者の追捕は執拗で、昌幸が妻子の護衛として雇っていた吾妻や戸隠の忍び衆が自分達を守って死んでいく中を駆け抜けたこともある。それは都育ちの山手にとって、一生に一度とて体験したくない程の過酷な道中であった。

 その時に植え付けられてしまった悪しき記憶が蘇り、山手の顔は月よりも白くなる。

 しかし当時を知らない佐助は「ご安心ください」と言葉に力をこめた。

 「十五年前と同様、大殿は見事なご采配により徳川軍を退けてございます」

 「あの、源次郎さまは?」

 夫の身を案じる伊三の問いにも、佐助は力強く頷いた。

 「無論、ご無事でございます。此度の戦は、西へ移動する徳川秀忠の軍勢を足止めする事が最大の目的でした。左衛門佐(源次郎)さまは城へ攻め入ろうとする徳川軍の陣を幾度も急襲し、大殿の策を成功に導く武功を挙げられました。伊豆守(信幸)さまは、あらかじめ大殿から伝えられた策どおりに砥石城を占拠、守備という名目でそのまま動かず、ご兄弟での戦は避けられました。この戦で徳川秀忠を足止めした事により、徳川の本体は大きく戦力を削られる事になる模様」

 「……よかった……」

 胸をなでおろす伊三の肩を、庭に下りた母が抱きかかえた。

 「して佐助、西軍と東軍の戦はどうなりますか?」

 「これから物見に参ります。治部少補さまは美濃の大垣城に滞在なさっていますが、先に落とされた岐阜城からの攻撃を警戒してやや西方へ移動して陣を構える模様。秀忠の軍が到着する前に戦が始まると大殿は読んでおられます。大谷刑部さまは治部少補さまに先がけて大垣城を出立、既に布陣の準備に入ったとの報告を受けております。場所は大垣の西、関ヶ原」

 関ヶ原。伊三の時代から遡ること千年前、その地が『青野が原』と呼ばれていた頃、かの天武天皇やその皇后・持統天皇の時代にも大きな権力闘争が起こり、それをきっかけに関所が設けられたことから「関ヶ原」と呼ばれるようになった地。

 なんだか因縁めいたものを感じる伊三を前に、佐助はもう一度頭を下げた。

 「では急ぎますゆえ。拙者は戦の結果を見届け次第上田へ向かいますゆえ、こちらには配下を遣わせまする」

 「どうぞ気をつけて。大殿と子ども達を頼みます」

 「承知いたしました、奥方さま」

 土埃ひとつ立てず、佐助は闇に姿を消した。猿のように身軽なことから『猿飛』という姓を師匠から与えられたらしいと笑っていた源次郎の言葉を裏付けるかのような静かさだった。

 友軍の勝利によって、石田治部の戦はかなりの優勢に動いたとみて良いだろう。だが伊三の母の表情は浮かないままである。

 「母様、父様でしたらきっと大丈夫ですよ。先日は弟の吉治も越前で前田軍をよく足止めしているという報せもありましたでしょう?それに加えて真田の大殿様もお力添えしてくださったのです。雪が降る前には、きっと大坂に凱旋なさいますわ」

 「だと良いのですが……あの人が刀を取って戦をしたという覚えがなくて不安になってしまいます」

 幼い頃には理解できなかった母の不安を、今の伊三は理解できた。

 大谷刑部が直接戦場を駆けた事は、実はあまり多くない。

 豊臣秀吉が羽柴姓を名乗っていた頃より仕えていた譜代の家臣ではあるが、秀吉に評価されていたのはその知略の方である。

 備中高松城の水攻め、紀州や九州、小田原の征伐。さらに大陸遠征と、秀吉が為した大戦において刑部はほとんどの場合奉行として秀吉の陣中に滞在して策の検討をしたり後方での物資の輸送に従事し、戦が終わってから検地に出向く官僚だったのだ。

 それは石田三成も同じ。自らが陣頭に立って戦う戦は初めてなのである。

 後方支援も欠かせぬ役目と分かっていた秀吉は戦後の褒章を平等に与えていたので大谷刑部も一廉の大名として城や石高を与えられる出世はしたのだが、実際に海を渡り最前線で命を賭して戦った加藤清正や福島正則らも似たりよったりの褒章である。どうしても不公平感が否めない。

 武士と奉行という立場の下に生じた不満は、秀吉の死によって大陸からの撤退という無情な結末と豊臣家の財政難による褒賞の少なさによって決定的となり、そこに生じた軋轢に徳川家康が割って入り溝を押し拡げた結果が此度の石田三成挙兵であったのだ。

 実質豊臣の人質として父に従い敦賀からともに京都、大坂を転々と暮らしていた時期が長い伊三の思い出に残る父の姿も、いつも夜遅くまで邸の文机に向かって筆を走らせている背中であった。武士の命という刀も、大抵は床の間の刀掛けに掛けられたままで鍛錬をしている記憶はほとんどない。

 人生のほとんどを事務方として生きてきた父…そして現在は病で身体の自由もきかない中で刀を振るう姿を想像する方が難しいような気がして、だがそうなると不安が一気に押し寄せてしまう。

 「大丈夫です。父上だって豊臣の武士、それに西軍には島左近さまや宇喜多さま、薩摩の島津さまもいらっしゃるのですから」

 「伊三どのの仰るとおりですわ。上田からの力添えもございました、天はきっと刑部さまにお味方してくださいます」

 「ええ……」

 そのとき、不安を打ち消すように母の手を握りしめる伊三の視界の隅を一筋の光が走った。

 「まあ、蛍!」

 伊三は薄水色の打掛を捌きながら庭に下りた。

 「きれい……まあ、こんなにたくさん」

 見てくださいな、と格子戸を目いっぱい開ける。部屋の奥まで入り込んだ月明かりに、伊三の母と義母…夫の母にして真田安房守の母・山手の白い顔が映し出された。

 三人の視線の先には、庭を飛び回る光の群れ。

 「今までどこにいたのかしら。まるで天の川のよう……」

 「今年は涼しい夏でしたから、蛍も遅い目覚めだったのでしょう。珍しい出来事は吉兆の前触れと申します。きっと良い報せが聞けるでしょう」

 漢詩や古文に長じていた大谷刑部と似合いだと言われていた伊三の母は、蛍の光にようやく希望を見出したように理知的な顔を取り戻す。

 山手も無意識のうちに扇を広げながら屋敷の狭い空を見やった。

 「なんだか信濃を思い出しますわ。かの地は水が豊かでしたから、夏になるとあちこちに蛍が舞って……星空を流れる蛍の群れ、それはそれは幻想的でした」

 「信濃……かの信玄公と謙信公が争うほどに、よき土地なのでしょうね」

 「ええ。千曲川の恵みがあるので土地は豊かで作物もたくさん獲れて……何より四季折々、時間ごとに移ろう景色が素晴らしゅうございました」

 「まあ」

 「山紫水明という言葉がありますでしょう?あの言葉どおりの土地ですわ。都のような華やかさも、にぎやかな市が立つこともありませぬが、『何もない』ことがこれほど清々しいものだと教えてくれたのです」

 「それは素敵ですわ。日ノ本は水と緑の国。自然が当たり前に息づいていることこそが本当の豊かさなのだと、夫も申しておりました」

ですから……と伊三の母は視線を蛍に移す。

 「豊かな国を守るために戦をするのか、それとも戦の後に豊かな国がついて来るのか、おなごの身では分からなくなる事も多うございます」

 「わたくしも。太閤殿下の治世でようやく戦のない世の中になったと安堵したのもつかの間、殿下の三回忌法要もそこそこに戦ですから」

 「わかりますわ。夫たちは熱心に戦の意義を説きますが、本当に戦が必要なのかと疑問になりますわね」

 わたくし達に出来ることは……信じて待つこと。

二人の母親が言葉のない結論で己を得心させる中、伊三はふと思い立って井戸の釣瓶を手にとった。

 「ほう、ほう、蛍こい」

 わらべ歌を歌いながら水を汲み、蛍の群れの真ん中にそっと置く。

 「どうしたのです?」

 「空を飛ぶ蛍は水しか飲まぬと父上から聞いたことがあります。それゆえ蛍の命は長くないことも……ですから、生きている間にせめて美味しい水を飲んでもらいたくて」

 「ふふっ、あなたらしいわね」

 よいしょ、と声をかけて庭の真ん中に桶を置き、伊三は庭の隅で蛍たちを愛でる。

 夏の蝉と同じく、望んでも長くて十日あまりしか生きられない命。
 それを教えてくれたのは、父だった。

 (まるで死に水のようであるな)

 父の言葉が伊三の脳裏によみがえった瞬間、伊三は蛍の光にとり囲まれたような感覚に囚われた。
 周囲が光に支配され、これまで忘れていた記憶が繰り出される。

 あれは、幼い伊三に手を引かれて敦賀の城下へ出た時であったか。大谷刑部は既に薄らぎ始めていでいたであろう眼で蛍の光を追いながらそう言っていた。

(ようやく得た羽ばたける時間も、実はわずかなのだ。私の命を奪うのは、病か、それとも戦か……)

 (父上、縁起でもないことを仰らないでください。父上のお体はまだお元気ですし、太閤殿下の御代は安泰ではありませぬか。そしてその次をお支えするのは……)

 そう言いかけたものの、そのとき伊三は誰の名も口にできなかった。

 (見えぬであろう?そなたの眼や蛍の光をもってしても)

 父はそう言って口許をゆがめていただろうか。

 (もしかしたら、豊臣の世も蛍のように消えゆくものなのかもしれぬ。光は、この世に転がっている無念や理不尽を無理やり呑み込んで流れていく……けっして自分で選ぶことが出来ぬもの、それを『時代』と呼ぶのだろうか)

 (光とは?)

 (そなたにも、いずれ分かるだろう)

 そのとき、父の肩に二匹の蛍がとまった。まばゆい光と控えめな光。番なのだろうか。

彼らの休息を邪魔しないよう、父は視線だけを蛍に移す。

 (が、もし私が光に呑まれてしまっても、そなたが私に代わって見てくれるのであろう。これからの日ノ本を)

 (そんな。日ノ本の行方を支えるのは父上も石田治部さまでございます。ご自分で光の流れを見守ってください)

 伊三の言葉に、父は伊三の髪を撫でただろうか。

 (時があれば、そうしたかった)

 父の言葉をきっかけとしたように、突如として光が水のように流れた。空中で渦を巻いた蛍の光は、やがて川の流れのように一列になって西へ向かって流れていく。

 なぜ西だと理解したのかは定かではない。ただ「何となく」そう感じたのだ。

 頭北面西。無意識のうちにそんな教えが頭をよぎったのだろうか。

 (父上……!)

 光の川に流されるようにして父の姿が遠のいていくのを感じた伊三は、呼び止めようと身を乗り出した。だが流れに足を取られて歩が進まない。

 この川は蛍の光の筈なのに。

 もどかしく足を動かす伊三の手が届かぬ先を、父はどんどん遠ざかっていく。いつ用意されたのか、四人の白い雑面が担ぐ輿に乗って。

 (まだ、そなたは私の許へ来られぬよ……私が殿下や治部少補と共にみた夢の行方、そなたが見届けておくれ。父との約束じゃ)

 (父上!どこへ行くのです?)

 輿の上の父は、そっと振り返ると何やら口を動かした。

 (生きるのだぞ、伊三。見届けることがそなたの役目だ。そして、役目には必ず意味があるものだよ)

 はっきりと聴こえた訳ではない。だが、父の最後の言葉は伊三の心に直接告げているように感じた。

 (待ってください、父上!)

 伊三はがむしゃらに前へ進もうともがいた。しかし泉のように果てしなく湧き出る蛍の光は父と娘をどんどん隔てていく。

 そうしているうちに、父の姿は蛍の光に飲み込まれていき……。


【関ヶ原の蛍】

 「小早川軍、松尾山に布陣を完了した模様です。山頂に篝火を確認」

 本陣に伝令の声が届く。

 『違い鷹の羽』の陣幕の中で軍議を行っていた大谷吉継は、その報せに頭巾の奥の瞼をわずかに開いた。

 「幟と篝火は指図どおり立ててあるな?」

 「はっ。数百を松尾山に向けて設置完了しております」

 「うむ。では指示していたとおり彼の陣の方向へ篝火をともせ」

 「承知しました」

 伝令が走り去ってほどなく、薄暮の山全体がほの明るくなる。

 「小早川への牽制でござるか。刑部殿の心中では、もう戦は始まっているとみて良さそうですな」

 首から久留子(クルス)を下げた小西行長が地図上に置かれた碁石を何度も確かめながら反応する。

 「あの者は未だに揺れ動いておる。徳川に内応するくらいなら、むしろ動かずいてくれた方が良い。儂がこの地で然と見ておる事を知らしめるだけでも、奴の足止めくらいにはなろう」

 「太閤殿下のお力で中納言にまでなれたというのに、まこと心弱き話」

 「それが小早川という男よ。だが、徳川は奴の大陸での武功に目をつけておる。あの者が命の危機に晒された時の底力は侮れぬ」

 「若年ゆえの怖いもの知らずで『何か』をしでかした者は少なくありませぬからなあ。ゆえに治部少補は刑部殿をこちらへ配し、本多・井伊・福島といった精鋭に正面からぶつかれる好位置に我が宇喜多と小西どのの軍を隣に配置したという訳か」

 大谷刑部の陣のすぐ隣を固める宇喜多秀家は、陣の配置を見ながら感心した。

 「いや、陣立ては私が行った。本来ならば私が石田の前につくべきなのだが、それよりも小早川の動きを止める方がより優先とみた。赤座・朽木・脇坂・小川らで麓を固めたのも、そのためだ」

 「ははは、ではわが軍を隣に配したのも」

 「相すまないな、宇喜多どの」

 「何の。正面の戦だけに集中できるのならば僥倖。のう小西どの」

 「いかにも。豊臣恩顧でありながら東軍についた福島左衛門尉と存分に戦えまする。彼奴を後悔させてやりますぞ」

 「お二方とも頼もしい限り。殿下の恩に感謝せねばなりませぬな」

 「それはこちらも同じ。必ずや勝利し、戦勝の宴にて会いましょうぞ」

 「おお、それは楽しみだ」

 より遠方に陣がある小西は先に帰陣し、宇喜多は刑部の陣から見た自陣の配置を物見すると言って刑部の配下に案内されながら高い場所へ上がっていった。


 「此度は『対い蝶』ではないのですね」

 松尾山の方を眺めて瞑想していた刑部少補に語り掛けたのは、宇喜多秀家の伴として刑部の陣を訪れていた明石全登だった。

 主君が物見をしている間、細かい陣立や注意するべき地形を紙に写していたのだ。

 「大谷家は先祖代々こちらの家紋を用いてきた。此度の戦に少しでも先祖の加護があればという願掛けだ」

 「……それだけ、難しい戦だという事ですね」

 「ふむ。そなたは主と異なる考えを持っておるようだな」

 「キリスト教を布教するため海を渡ってきた異国人の中には、母国の楽観的な意向のまま海を渡ったことを後悔している者も少なからず居りましたから。どうも疑り深い性分になってしまいました」

 「そうかもしれぬな。言う方は容易いが、いざ実践する側にとっては過ぎた楽観と期待は重荷としかならぬ……が、たとえ真理だとしても言葉にせぬ方が良い事もあるぞ」

 「!」

 「言葉に宿る魂は存外に強い。太閤殿下は前向きな望みをことごとく口にする事で己が運を引き寄せてきた。それこそ『言うは容易い』方であったとしても、だ。反対に、後ろ向きな事は誰にも話しておらなんだ」

 「……失礼いたしました」

 素直に詫びる齢若き将に、刑部の頭巾が少し緩んだように見えた。そして話題を変える。

 「……実は、先ほどそこの曲輪で蛍を見かけてな。奉行を務めていた堺や殿下から賜った敦賀城でわが子と眺めていた昔を思い出していた」

 「蛍……」

 明石が見回すと、たしかに熊笹の群れの中にちかちかと光るものが見えた。

 「おお、このような季節に珍しい」

 「見えるものほぼ全てが白と黒だけになったこの眼でも、光るものはよう判る。何かが見えるというだけでも、今の私にはありがたい……だが同時に恐ろしくもある」

 刑部は病で皮膚が冒されたために閉じられなくなって久しい瞼をひくつかせながら蛍を目で追っていた。

 「光は希望であり恐ろしくもある。理不尽も不条理も、数多の無念ですらいとも容易く『なかったこと』にして己を貫いていく……その罪を背負うことすらせず、ただ呑み込みながら疾っていく」

 「それは太閤殿下のことでございますか?」

 「戦で人を死なせた者、国を滅ぼした者、これからそうする者すべてだ。勝者が光を統制し、敗者は生死を問わず光の一片となってただ流されるのみ」

 「……」

 キリシタンである明石は、久留子を取り出して軽く拝み、胸の前で十字をきった。

 明日の戦で光を掴むのは石田治部少補だろうか、それとも。

 「して、蛍だが。そなたが信ずるかどうかは任せるが、今しがた蛍を通じて我が子と言葉を交わした気がしておったのだ」

 「お子様、でございますか」
 たしか太閤の一存によって姫君が真田左衛門之佐の妻になったと明石は記憶している。

 「今頃は二の丸にて眠れぬ夜を過ごしておろう。だが、蛍を介しての瞑想で伝えたいものは伝えられたような気がした……ついに病が脳まで冒したかと笑わば笑え」

 「いえ、そのような事はございませぬ」

 明石が久留子を握る手に力がこもった。

 「デウス様の伝承にも奇跡の数々は伝えられております。デウス様は刑部どのの罹った病と同じものに手を触れただけで病を癒したとも、亡くなられた後に縁者の前に現れたとも」

 「……」

 「ですが、私はそれを奇跡と呼ぶのは異なるような気がするのです。デウス様を慕う者達とデウス様の彼らへの思いが強く繋がっていたがゆえに、目に見えぬ『思い』というものが三途の川を超えて顕現したのではないかと……キリシタンになる前はお釈迦様を信じておりましたゆえ、そのように思っておりました」

 「なるほど。どちらの教えも知る者ゆえの知見であるな」

 「きっと刑部どののお心は姫君にも伝わっておいででしょう。私はそう信じております」

 その時、物見に出ていた主が本陣に戻って来た。神のご加護を、と言って明石は主に従い山を下りる。

 (奇跡、か……)

 あまりにも惨く滅茶苦茶な主の治世を見ていたためか、徹底的に現実主義な生き方をしてきた刑部にとっては純粋すぎて気恥ずかしくなるような言葉である。

 しかし。

 実際にそのような言葉や伝承が存在するのだから、生涯に一度くらいはこの眼で拝んでみたいものだ。

 石田治部少補率いる西軍の勝利と、どちらかを秤にかける事はできないが。



 「これ、伊三」

 母の声で我に返った伊三が突っ伏していたのは、邸の縁側。

 そろそろと身を起こすと、母の打掛が肩からずれ落ちた。

 「蛍追いに夢中になって、そのまま転寝してしまったのですね。風邪をひきますよ」

 「……父上は?」

 「まあ、父さまの夢を見ていたの?」

 「夢……」

 まだ霞がかったままの眼で庭を見れば、あれだけ舞っていた蛍はもう何処にもいない。

 (光のように理不尽や無念を吞み込んで流れるのが『時代』)

 まるで父が眼前で説いてくれたかのように鮮やかな言葉が、伊三の胸の内で反芻される。

 「……父上は、ご無事で戻られますよね……」

 「まあ、先ほどあなたが元気づけてくれたばかりではありませぬか」

 今度は母が「大丈夫」と伊三を抱きしめる。

 「母が弱気になったばかりに、あなたに無理をさせてしまったようですね。大丈夫、殿はきっと大坂に凱旋してくださいますわ。わたくし達は、ただ信じて殿のお帰りを待ちましょう」

 「はい……」

 「さあ、もう休みなさい」

 母とともに寝所に入る前、伊三はもう一度格子戸の向こうにある庭を見やった。

 井戸の側の葉陰に、弱い光がまたたいたような気がした。


 関ヶ原にて西軍敗北と大谷刑部自害の報せが大坂城に届いたのは、それから七日後のことであった。



【ふたたびの蛍】


 慶長二十年皐月、奇しくも十五年前と同じ大坂城二の丸にて。

 十五年前の出来事を回想しながら、伊三は鋏を手にする。


 「髪が結えましたよ、だんなさま」

 あの頃よりも大坂城の天守が近く見える部屋で、伊三は夫の髪を結わえる真田紐の端を切って整えた。

 「ありがとう」

 今宵の夫は、昨日道明寺にて伊達政宗率いる徳川精鋭軍との死闘を引き分けて帰還した高揚のまま夜更けまで軍議を行い、ようやく戻って来てからわずかに横になったきり。幾度も寝返りを打ちながら夢現を彷徨った後、暁から曙へと移ろいゆく時分になって。

 遠くない未来に『日ノ本一の兵』と呼ばれる夫は、やおら起きだすと糟糠の妻に身支度を頼んだのだ。

 湯を沸かして身体を拭き、夫たっての希望で上田紬を使って仕立てた鎧直垂に袴、脚絆を着つけていく。髪結いは、その仕上げであった。

 返り血や埃にまみれた甲冑や籠手は清拭と修繕に出しているので、夜明け前には家来衆が持って来てくれる。そうしたら茶臼山に出陣する予定だと話していた。

 「戦装束でいる時間に慣れるのも困ったものだ。小袖よりこの姿の方が落ち着いて休めるとは」

白湯でも持とうかと勧める妻を止めて、夫は「ふう」と伊三の膝を借りて横になる。

 総髪のまま、髷を下ろして後ろで一つに束ねた髪。父親の真田安房守昌幸同様、かたくなに月代を剃らなかったのは徳川への反発心の現れであろう。そういえば、大坂に集った浪人衆はほとんどが総髪である。

 髪型で反骨を表す気風がまるで傾いた若者のようで、伊三はクスッと笑うと夫の頬に手を添えた。

 「子ども達は、片倉さまの陣に着いた頃でしょうね」

 これほどまでに広かったのかと驚く程がらんとした邸に、夕刻まで裸足で走り回っていた子ども達の足跡がうっすら残されている。

暗くなるのを待って送り出した三人の子。ことに末っ子の大八はまだ乳離れしたばかりであった。

 「秀頼さまのお側についた大助を送り出したくて大坂城に残ったことに後悔はございませんが、大八が目覚めた時に母の姿がないと泣くのではないかと思うと少々心が痛みます」

 「阿梅もあぐりも、よう面倒をみてくれておるではないか。きっと上手くやってくれる」

 それに、と源次郎は自分の頬に添えられた伊三の手に自分の手を重ねた。

 「明日の戦が始まったら、そなたも侍女たちと共に大坂城を脱出して片倉殿の陣へ参る手はず。それまでの辛抱だ」

 「……そのことなのですが」

 伊三は道明寺の方角…そのはるか先にあるものを見やりながら打ち明けた。

 「わたくしは片倉様の陣へは参らず、九度山に帰ろうと考えております」

 「?」

 「家族として最も長い時を過ごした家は、やはり恋しゅうございます。それに義父上のお墓も放っておけませぬ」

 「しかし、それでは子ども達が」

 「明日の戦で源次郎さまが勝利を収めれば、紀州にはいつでも帰って来られるでしょう?伊達さまの方も戦後処理が終わるまでは京都に滞在するでしょうから、子ども達は忍衆に迎えに行ってもらうこともできます」

 「……」

 今頃、三の丸にあてがわれた大部屋で武具の手入れに余念がないであろう真田の忍衆。源次郎の幼少期から九度山まで、人生のほとんどにつき従ってくれた者、戦の過程で源次郎に感服して忠義を誓ってくれた者。彼らを束ねる十人の頭衆の顔が次々とよぎる。

 仕える主が蟄居中にあっても暇乞いをする事なく、上田と九度山のやり取りや全国各地の情報収集、紀州で生きる雑賀衆の残党と親しくなって鉄砲術や硝薬の製法を学んだりと、それぞれが出来る方法で源次郎一家を支えてくれた。皆、九度山で苦楽を共にした大切な家族であった。

 「わたくしは、また家族や忍びの皆と一緒に九度山で暮らしとうございます。都での暮らしは、どうやらわたくしの性に合わないようで」

 その奥にある真意を源次郎も感じ取ったのだろうか。源次郎は妻の手の上に重ねた自分の手に力をこめる。

 「そうであるな。皆でまた畑を耕し、真田紐を織り、干し柿を作り……」

 「夏には川で魚を捕まえて、皆で食べましたね」

 「大助は火起こしが上手だった。魚が苦手だった阿梅は、初めて自分で捕まえた魚を河原で焼いて食べてからは魚を『美味い』と食べるようになり、あぐりは魚の骨を器用に取って大八に食べさせていた」

 楽しかったなあ。

 祝言で初めて顔を合わせた伊三の緊張をたちまちほぐした…一目で心惹かれたくしゃっとした笑顔を見せた源次郎は、流れた視線を庭の一点で止めた。

 「蛍だ」

 「まあ」

 夫の視線の先を追った伊三にも、庭の紫陽花に引き立てられた光が見て取れた。

 季節はずれの蛍。十五年前の痛みが伊三の胸の奥でうごめく。

 「蛍、か……立夏とはいえ、まだ寒かろうに」

 一匹だけかと思っていた蛍は、どこからともなく次々と現れて庭の陰影を浮かびあがらせた。

 「そういえば、昨年は九度山で子ども達と蛍追いをしたな」

 「そんな事もありましたね」

 「大助と阿梅、あぐりが歌いながら蛍を追い、追いかける大八があぜ道に落ちぬよう私が肩車して」

 「そうそう。大八がだんなさまの肩の上で粗相をして」

 「あれには慌てたな……ああ、懐かしい」

 あれから、まだ一年も経っていないのに。

 「どうしても九度山に留まっていられなかった私の一存で、家族みんなの運命を大きく変えてしまった。申し訳なく思っている」

 「……もう。今更何を仰るかと思えば」

 ふと謝る夫の頬を、伊三はぽんぽんと叩いた。

 「九度山を出る時、家族みんなで幾度も話し合ってだんなさまをお支えようと決めたのですよ。ですから、だんなさまは何も迷いなさいまするな。そして諦めなさいまするな」

 どんな時にも諦めない、強い気持ちが武運を引き寄せる。天正壬後の乱の頃から言霊のように真田家の者に伝わる想いを知っている伊三は、姑の山手のように強く言い聞かせた。

 「諦めぬ者だけに道は開かれるのでしょう?」

 伊三の強い言葉に、源次郎も幾分か表情を和らげる。

 「そうであったな。私が再び『武士』として戦場に出る夢を叶えてくれた。ならば私は迷わず戦わなければならぬな」

 「ええ。おもいっきり戦ったら、九度山に戻って来てください。わたくし特製の『そばがき』をたんと用意してお待ちしておりまする」

 「楽しみにしている」

 源次郎は思い出を回想するかのように目を閉じ、安堵した子どものようにすとんと眠りに落ちた。

 曙時まで、あとどのくらいだろう。伊三が庭に目をやると、まだ蛍が舞っている。

 光を身にまとった蛍の羽ばたきに合わせて長く伸びる軌跡が幾筋も重なり、さながら光の川のように見えた。

 (昔見た景色は、きっとこれだったのですね)

 あの頃すでに嫁いでいた身なので幼くはなかった筈だが、あの頃には理解できなかった不可思議の真相に今更気づいてしまうとは。

 幾多の経験によって心が熟達していたと言えば聞こえは良いが、つまりは齢をとったという事か。そういえば父の享年に追いつくまであと数年であった。

 (父上を見送った母上も、今のわたくしのような心持ちだったのでしょうか)

 日ノ本の行方を見てほしいと夢の中で願っていた父の声が。蛍の光に導かれるようにして思い出される。

 (父上。日ノ本は変わらず戦をしております。一旦は歴史から消えただんなさまをも巻き込んで……わたくしは、まだ父上との約束を果たせておりませぬ)

 戦乱の時代にわずかでも関わってしまった者をすべからく駆り出さなければ、この戦国という異常な時代の幕引きは出来ないという事なのだろうか。

 夜が明けたら、夫はおそらく最後の戦に出ていく。

鬨の声、雄たけび、馬のいななきに蹄の音、そして銃声や砲弾の地響きの中を駆ける。

何万もの兵たちの戦いで戦国の時代が終わるのか、それとも更なる戦が待ち受けているのかは誰にもわからない。

武士の妻として、いかなる結果になろうと毅然としていなければならない。伊三はそう自分を戒めて、夫の寝顔を見つめている。

 「……大八……」

 ふいに夫が息子の名を呼んだ。目を覚ましたのかと顔を見れば、すやすやと寝息を立てている。

 夢の中で、幼い我が子と何を話しているのだろう。

 「……約束だ……」

 「!」

 その瞬間、伊三の心を支えていた堰が切れた。

 (光は、この世に転がっている無念や理不尽を無理やり呑み込んで流れていく……けっして自分で選ぶことが出来ぬもの、それを『時代』と呼ぶのだろうか)

 涙がぽろぽろとこぼれ落ちる中、耳元で囁かれているかのようにはっきりと父の言葉が蘇る。

 愛するものをことごとく呑み込んでいくのが時代、そんな事があってはならないと思う。誰だって、自分の生き方は自分で選びたい。

けれど、現実は父の言うとおりなのだ。

夫に迷いを与えてはならない。伊三は心の中で頭を振って自分の記憶を振り払った。しかし消えない。

「わたくしは此度も見届けることになるのでしょうか、父上」

夫を、そして最愛の息子を。

(見届けることが、そなたの役目じゃ。そして、役目には必ず意味があるものだよ)

そうなりたくないから九度山に戻るのだ。一年に満たない大坂城での時間を切り取って、九度山での幸せな日々だけを繋げるために。

だが、現実は……。

 言霊の力をもってしても抗えるかどうかは分からぬが、今は信じて祈るしかなかった。

 「だんなさま。必ずや大助と一緒に九度山に戻ってくださいませ……」



 
同じ刻。

 伊達政宗と片倉小十郎重綱が逗留していた寺の本堂で。

 真田左衛門佐からの書状に目を通した伊達政宗との対面後、素性を誤魔化すため飯炊きの侍女や小坊主の装束をあてがわれた真田の子らは厨の隣にある板の間で夜具にくるまっていた。

 明朝、決戦の鬨が上がる前にはこの地を離れて京都伏見の伊達屋敷に移る手はずとなっている。そこでしばらく身を潜め、伊達軍が奥州へ引き揚げる際に侍女や小姓に扮して白石城に同行すると聞かされた。

 これらは片倉小十郎重綱の配慮である。厨の勝手口から見える庭のすぐ先には寺の裏口となっている板戸があり、人目を忍んで脱出するには好都合だった。

 姉二人に守られるように眠っていた大八は、閉じた瞼の向こうに眩しさを感じて小さな眼をうっすら開けた。

 外から迷い込んだのか、蛍が大八の頭上を飛び回っている。

 (ほたる……)

 蛍の光はゆらゆらと波を描き、勝手口の方へ…まるで大八を導くかのように飛んでいく。

 大八は姉二人を起こさぬようそろそろと這って枕元から出ると、風を追って勝手口の縁に腰をかけて庭に顔を出した。

 その瞬間、大八は無数の蛍の光に囲まれる。

 「わあ!」

 蛍の川であった。九度山で見た天の川のようで、大八はその河に足を踏み入れていた。

 どのくらい戯れていただろう。気配を感じて見上げると、そこには父がいた。

 (父上?)

 父は大八と目が合うと、にっこりと笑ってみせた。

 (美しいであろう?私もさっき知った…いや気づいたばかりなのだが、この蛍たちは戦国の世に飲み込まれていった者たちの魂なのだ。たくさんの命が失われた後には、こうして川のように群れ飛んでいく)

 (たましい?)

 (蛍は、人の命が消える間際の輝きを背負って流れ飛んでいるという事だ。それが証拠に、蛍自身も長くて十日ほどしか生きられぬ)

 (こんなに綺麗なのに)

 父の言葉が本当なのか、それとも単なる比喩なのか。そもそも父がなぜそのような事を語って聞かせたのか。

 大八がそこに思惟を巡らせるのも、そして自分なりの解を導くのも、まだ遠い将来の話。

 父は大きな手で大八の頭を撫でた。

 (大八。そなたは何があっても生き、そして見届けよ。我ら武士が百余年にわたって戦い続けた世の顛末を)

 (父上、それはどういう事ですか?)

 (そなたがもう少し大きくなったら分かるであろう。よいな、父との約束だ)

 にっこりと笑った後、父の姿は川に流されるように遠のいていく。

 (父上!)

 父も蛍の光に命を預けていくように見えて、不安になった大八は小さな足を精一杯動かして父を追いかけようとした。しかし、どうやっても追いつけない。

 川の中でゆらぐ水草のように足にまとわりつく何かを振り払おうと足元を見た一瞬のうちに、父の姿はもう見えなくなっていた。

 「父上……」

 静まり帰った厨の片隅。 
 姉たちに挟まれて眠る大八の頬に、一匹の蛍が止まっていた。

 目じりから流れた一筋の涙を拭うように、もしかしたら別れを惜しむかのように幾度も行き来している。

 およそ百五十年にわたって続いた戦国時代最後の日の暁時であった。

 空が白み、曙の刻が近づく。蛍はふいと飛び立ち、茶臼山の方向へと飛び去っていった。


(了)



 竹林院さんのお名前「伊三」は、敬愛する信州上田おもてなし武将隊での真田幸村公の奥方が名乗っていらっしゃる「三好伊三入道」さまからお借りしております。

 竹林院さんは、戦国の世で父の大谷刑部と夫、息子、さらに弟(大坂の陣で真田軍とともに戦った大谷吉治)と身内を四人も見送っているんですよね。

 たった一人を見送るだけでもその辛さはたいへんなものなのに、三人となるとその胸の内はいかばかりであったかと思います。

 さらに生き延びた子ども達とも生き別れとなり、紀州との国境で捕えられ(私は九度山に戻ろうとしたのだと解釈します)、助命はされたものの京都で髪をおろして娘の一人とおよそ34年にわたって余生を過ごすことになります。

 戦国時代が終わってもなお祈り続ける伊三の心、そして仙台で立派な武士として成長した大八の心を、蛍が慰めに訪れていてほしいものです。

 (大八については諸説ありますが、今作では仙臺班の武士となり仙台真田家の祖となる説を採用しています)


2023.6 観雪

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