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宙組公演『FLYING SAPA』感想

宙組さんのFLYING SAPAを8/11にライビュで観てきた。

制作発表以来、非常に楽しみにしていた作品。昨今の状況下で千秋楽まで走り抜けられたことが奇跡そのものだと改めて噛み締めている。

個人的にSF映画が好きなこともあり、特にラストシーンに関しては描かれたこと以上に色んなことを考えてしまったので、せっかくなのでまとめてみようと思う。感想というよりは考察や二次創作に近い形なので、こんな捉え方をした人もいるのだな〜くらいに受け取ってもらえたら嬉しい。完全ネタバレしてるので、未見の方はご注意ください。

SAPAの世界観

SAPA、正直にいうと物語の運びとかはSFの文脈からすると突飛ではないというか、むしろお約束的な流れをきっちり踏襲している印象だったので、ストーリーとしての目新しさはない。加えて所謂『最新のSF映画』ではなく『少し古いSF映画』の世界観がしっくりくる設定や展開だった。ディストピア的で、人間の感情が剥き出しになって、何処か郷愁を誘う寂しさとロマンを感じる、そんな雰囲気。これが意外にも宝塚の文脈にハマったなぁというのが最初の驚きだった。稽古場レポート特別編で真風さんと芹香さんもお話しされていたように、物語自体はそこまで難しくはないと思う。SF映画に馴染みのある人だったら、構えずともスッと入れるし理解できるストーリーかな。

ラストシーンの解釈

逆に強い違和感を感じたのがラストシーン。唐突に現れた2年後のポルンカでは、人々が独裁制から解放されて、大きな混乱もなく未知の宇宙へと希望を持って今まさに旅立たんとする様子が描かれている。白々しく感じるほど、あまりに突然の宝塚的ハッピーエンドには正直拍子抜けだった。

しかしそこは上田先生作品なので、おそらく観たままの結末ではないんじゃなかろうか。個人的には、この結末はミンナと一体化した『かつてミレナだった存在』が見せた仮想現実だと解釈している(根拠はTwitterの方を参照)。

ブコビッチ博士は死の間際、実験が失敗したとは言わなかった。博士を背後から撃ったミレナの姿が地球での姿だったことから、すでにこの時ミレナの肉体は消失していて、完全にミンナそのものになったのではないか。

博士は、崩壊する地球で愛する妻と娘を暴漢から守れずに奪われた自分の無力さを罪とし、また自分を友人だと言ってくれた男をその手で殺した事実について裁きを望んでいてもおかしくはない。「人は憎しみだけで殺すのではない」という台詞は、被害者であり加害者でもある博士がしたことに対する究極の断罪にして赦しだったように思える。当然ミイナはブコビッチの思考も統合しているので、あえて最期に博士が望む言葉を与えたのかもしれない。

また、ブコビッチ博士のエゴによって3万以上の人間の思考を吸収したミレナの人格が、正常に機能しているとも考えにくい。つまり実験が成功してしまった以上、彼女は『ミレナ』という自我を失いポルンカの全てを内包する神のような高次の存在となったのではないだろうか。人柱の神格化は国を問わず古くから存在する逸話だ(直近の宝塚だと、龍の宮物語など)。SAPAの世界では「巡礼」という言葉が使われたり、キーとなる登場人物がイスラエル出身のユダヤ人であったり等、宗教的要素が作品を紐解く鍵になっている可能性はゼロではないだろう。その中でもユダヤ教の存在感は大きく(キリスト教の赦しの神ではなく、ヤハウェは裁きの神だ)、この点については考察の余地が大いにありそうだ。

いずれにせよ、ミイナが構築する完璧なシステムの中で住民それぞれが望む夢を与えられる──これが本作の結末の意味であると私は解釈した。ブコビッチ博士にとっての夢は罪からの解放であり、結果的にミレナを守れなかったオバク(=サーシャ)にとってはあの白々しい一連のラストシーンこそが心から望んだ未来なのかもしれない。

冒頭でオバク自身が望んだとおり、彼は二度と目覚めることのない幸せな夢の中で、起こり得ない未来を見続ける。そんなふうに考えてしまったので、私はこの作品を大団円のハッピーエンドとは捉えられない。この解釈が一つの結末であれば、ミイナに統合された他の人類の意識は一体どうなってしまうのか。恐らくこのまま子孫を残すこともなく、ミイナという母体に抱かれて最後の一人が息を引き取るまで夢を見続けるのではないか。

作中でも明確に描かれているが、この世界では女性は搾取され、利用され、容易に傷付けられる。ミレナもまた多くを奪われた女性だ。そんな女性性の復讐とまでは言わないけれど、薄ら寒さを禁じ得ないラストシーンはやはり見たままのハッピーエンドではないように思える。

*この解釈に似たところで、宇宙大作戦(スタートレック)の名エピソード『タロス星の幻怪人』というエピソードがあるのだけど、こちらも名作なのでおすすめです。


ブコビッチとロパートキンと四歳児

「多分、君たち親子が好きなんだ」というブコビッチ博士の台詞を聞いた瞬間に「ローグワンのクレニックとゲイレンかよ……」と頭を抱えてしまったのは私だけじゃないと思いたい。

ブコビッチにとってロパートキンは唯一の友人で、誰よりもロパートキンの理解を得たかったがそれは叶わなかった。息子のサーシャから全ての記憶と感情と自我を奪って、挙句最後には己の感情を力づくで理解させようとするブコビッチは、息子を支配することで父・ロパートキンを獲得しようとしているかのように見える。結局、ミレナもサーシャも喪ったものの代替物としか見てないので救いの余地もない。つくづくこの男は哀しい存在だと思った。

一方の四歳児オバク。『サーシャ』を形成する全てを奪われた彼はあんな風に無気力で無感動な人間として生きていたけど、世界に触れて守りたいものができた瞬間から、この四歳児は自我を目覚めさせ成長を始める。その成長過程で彼が見せた感情の動きの鮮やかさ、綺麗事を信じたいとする必死の訴えには心を打たれた。ブコビッチが見せたのはサーシャとしての記憶の一部であり、結局最後までオバクは完全イコールの存在としてのサーシャにはなり得なかったと理解しているけど、元々彼の持つ善性だったり優しさが再獲得される過程で無防備な感情が発露する様は、どしようもなくエモーショナルだ。

ブコビッチによって『憎しみ』の感情を与えられたオバクは、慟哭の中で「俺がお前を赦したら、お前は人類を赦すか」と問う。サーシャなら博士を殺さなかったかもしれないけれど、オバクはもうサーシャそのものではないので、ミレナが殺してなけりゃ最後には自分の手でブコビッチを殺したかもしれない。自我を獲得し始めたばかりの四歳児には、いくつも可能性が残されているのだ。

総括

キャストに関して、若干。

真風さん、ビジュアルも演技も「こういう真風涼帆がみたかった」をオールクリアしてきてて、素晴らしいを通り越して恐ろしくなった。特に二幕のブコビッチ博士と対峙するシーンの感情の揺れは、抑えに抑えた前半とのギャップも相まって、こちらが息苦しくなるほどの大熱演。ボロボロでヨレヨレのセーターがあんなにかっこいい人いる?外的要因に振り回され傷付けられ、もがきながらも善性を失わない役をやらせたら右に出るものはいないトップスターだと思う。

星風さんは観るたびに新しい姿を提示してくれる。元々の実力も高いのに加え、どこまでも伸び代を感じさせる上に努力の跡がはっきりと見える職人肌の役者。彼女のポテンシャルの高さをはっきり見せつけてくれると同時に、これからの成長も改めて楽しみになった。まどかちゃんだからこそこういう役をやらせたかったであろう上田先生の気持ちはめちゃくちゃわかる。

芹香さん演じるノア先生は、職業や属性の設定は誰より明確なのに、感情の置き場所が誰よりも不明確という最も不思議なキャラクターだった。彼の「ピカピカの正義」はあの世界で一種異質で、本編以上の過去も語られず、サーシャだった頃のオバクとの関わりも描かれない。サーシャがかつて語った理想や姿勢の鏡的な存在なのかもしれないし、はたまたスパイのアンドロイドか?とすら疑ってみたけど、さてどうなんでしょう。サパの世界ならなんでもあり得る気がする。役回りのあっさり加減に対して流石の存在感だった。

お三方意外にも、組子さん全員素晴らしい演技を見せてくれていた。特にリアルすぎる中年男性すっしーさんと、剥き出しの感情が痛々しい夢白さんは強く心に残った。

総括して、SF映画が好きなこともあって『FLYING SAPA』は非常に考えることが多く世界観的にもだいぶドンピシャで、大切にしたい作品のカテゴリに入った。間違いなく賛否両論あるだろう内容だし、一部(宝塚の文脈で目撃するには)ショッキングなシーンもあるけど、不必要なシーンはひとつもない極限まで削ぎ落とされた作品だと思う。

日生劇場での公演が無事に行われることを祈りつつ、もし叶うなら生で観たいなと思わせる、美しく哀しく恐ろしい物語だった。