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ジョハリ #月刊撚り糸

 ふと目覚めて、隣を見て溜息が出そうになるのを慌てて堪えた。安らかな寝顔と安らかな寝息。なんだか息苦しくなって、涙腺が緩んだから反対側に寝返りを打つ。

 どうしてだろう、と思う。この人生を選んだはずなのに。この人を選んだはずなのに。

 部屋はまだ暗い。きっと朝は遠いのだろう。もうひと眠りして起きたら、あの友人に電話をしようと思う。


***


「ジョハリの窓って知ってる?」
 佳奈がそう言ったのは、社会人になったばかりの頃だった。
「うちら何学部卒よ?」
 椎名はそのとき、呆れたように答えた記憶がある。佳奈はそんなこと気にもせず笑って続けた。
「心理学部。そら知ってるよなー。あたしはあんま覚えてへんかったけど」
 お気楽そうなその姿に、椎名はいつものごとく肩を落とした。
「最近な、職場の人にそれ訊かれてさ。ほんでよっつの窓の説明されたんやけど」
「うん。自分しか知らん自分、自分も相手も知ってる自分、相手しか知らん自分、相手も自分も知らん自分、やろ」
 佳奈の語尾を引き取って話す。釈迦に説法とはこのことだろうか。佳奈の職場の人間がどの程度の知識を持っているのかは知らないが、こちとらごりごりの心理学部で教育を受けているというのに。
「それそれ。なーんか久しぶりに聞くとさー、なんか目に出るんかなあと思って」
「目?」
 なんか、が多いとツッコもうと思ったのに、意外な単語に思わず問い返してしまった。
「目は心の窓って言うやん? それやったら目に窓が出るんちゃうかなって」
 理解するのに、一瞬だけ時間を要した。
「いや、それとこれとはきっと別問題やと思うで?」
 椎名がそう言うと、きょとん、とした後でその時の佳奈は笑った。


***


「佳奈~、やっぱもうあかんのかなあ~」
 電話口に向かって弱音を吐く椎名に、遠い回線の向こうで佳奈が溜息を返す。将史は外出中である。先ほど掃除を終えた椎名は、大きなクッションに身体を埋めながら片耳にワイヤレスイヤホンを挿して話している。
「最近さ、将史の顔見てたら溜息出そうになんねん。ほんでなんかもう、目合わせられへんねん」
「へえ、なんで? 生理的に無理?」
 笑いを含んだ佳奈の問いは、案外的確だ。究極の『終わり』は結局生理的に訪れることを、椎名は知っている。
「や、生理的って言うか」
 椎名は言葉を濁してしばし考えた。自分の感覚にしっくりくる言葉を探す。
「目見たら違和感が拭えへんくなる気がして」
 結局正解だと思って伝えた言葉は、それだけでは足りない気がしたし、これ以上言葉を重ねると多すぎる気がした。
「違和感、なあ」
 佳奈の復唱に、向こうからは見えもしないのに無言で頷く。違和感、なんとなくそぐわない感じ、異物感。
「それは、心の開き具合に差があるからでは?」
 すとん、と放たれた問いに、椎名は目を丸くした。
「心の開き具合?」
「目は心の窓って言うやん? そこの開き具合がずれてたら、そら目合わしたときに違和感ぐらい出るやろ」
 もともと、将史と椎名はタイプの違う人間だったから、心の取り扱いにもズレはある。それは人類皆なんだろうけれど、一緒に住むことで少しずつ擦り合わせができてきていたはずだ。それがちょっと気を緩めた隙に出てきたというのだろうか。
「もともと、椎名心開いてないなって思ってたもん」
「え!? そっち!?」
 続けられた佳奈の言葉にぎょっとする。
「まあもちろん、まったく同じは無理だろうし、無理に開けとも言わんけどさ」
「えええ……、心開いてないかあ……?」
 将史には、割となんでも開けっ広げに話しているつもりである。生活も人生も共に、と考える相手であるからこそ。
「うん、なんか昔さ、ジョハリの窓ってあったやん? あれで言うと、椎名は自分に見える自分のとこしか、相手に見せてない気がする。相手から見える自分のことは見てないってかんじ?」
 よっつある窓のうち、ふたつしか開けていないということだろうか。
「ほんで開けたと思ったらすぐ閉める」
 またも笑いながら放たれた考察に、椎名はうっと息が詰まった。心当たりは、ある。もともと、心を開くという行為が苦手だった。今でも、特別付き合いの深い友人にしか心は開けていないし、それでもどこか常に緊張している。

 佳奈はそれを分かった上で、椎名の友人だ。

「いったん開けっ放しにしてみたら? 傷ついてもまあ、それはそれやろ」
 佳奈のさっぱりした口調と声音は、椎名に問題を軽く感じさせる。うん、そうしてみるわ、と言って電話を切った。


***


 ふと目覚めて、隣を見て溜息が出そうになるのを慌てて堪えた。安らかな寝顔と安らかな寝息。なんだかきゅっと苦しくなって、涙腺が緩んだからそっとそちら側に寝返りを打つ。

 こうしていよう、と思う。この人生を選んだのだから。この人を選んだのだから。

 部屋はまだ暗い。きっと朝は遠いのだろう。もうひと眠りして起きたら、あの友人に電話をしようと思う。


「窓は開いてるよ」、と。

 


+++あとがき+++

最初はピーターパンの話を書こうと思っていたんですが、頭の中になにやらが降ってきて急遽路線変更することになりました。
裏テーマは「序破Re:」、なんていう語呂も考えたんですけど、どうなのかなあ、沿えているのかなあ。
創作は、やはり楽しいですね。いつもありがとうございます。


#窓は開けたままにしておいて

#月刊撚り糸

読んでいただきありがとうございます❁¨̮ 若輩者ですが、精一杯書いてます。 サポートいただけたら、より良いものを発信出来るよう活用させていただく所存です。