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VRで聴く

「聴く」についての覚書。
昨日は月に1度の公開カウンセリング。
私が聴き手となり、参加者さん2名のお話をそれぞれ20分聴いて、その後オブザーバーの参加者さんと質疑応答をします。

自分が無意識・または意識的にやっていることを、質問していただくことによって、あらためて言語化します。すると、再現可能なかたちでほかの人たちに手渡せたり、逆にこれはしないほうがいいね、と確認できたりする会です。

今回は、私が聴きながら、単にお話をイメージする、というよりはまるでVR装置を全身につけているかのように疑似体験している、ということを話題にしました。

私としては「イメージする」の中に、映像としてビジュアルで浮かべる、だけでなく、実は体感として疑似体験すること、を含めていたのだと気づきました。これからは、「VR装置をつけて聴いてみて」まで言及しよう。体感大事。

もうひとつ私が今回した実感。
これまではココロで聴くより一段深い、ハラで聴いてみよう、ということを伝えてきたけれど、ハラの「内側」で感じるというよりは、腰までどっぷり沼に浸かる感じ。包まれて含まれる。でも全身ではない。

ココロで聴くっていうのは、悲しい、寂しい、嬉しい、ムカつく、など感情の揺れを一緒に感じながら聴くんだけど、その奥には、愛や、つながりや、尊重や、いろんな望みがある。
その望みを、ハラでしっかりと感じて、っていう認識だったんだけど、実際今日のセッションではハラの中だけでなくて、腰までどっぷり「愛」や「つながり」の沼に浸かっている感じで聴いていたことに気づいた。

その沼は、あたたかく、どろりとした安らぎに満ちていた。(とろりじゃなくてどろり。)

自由や、挑戦の望みであれば、沼ではなく、風に乗る感覚であったり、岩場を小さなとっかかりを頼りに上るような体感になるかもしれない。やっぱVR!
話された内容、情景もVRで疑似体験しながら、その本質にある望みにも、VRでご一緒させてもらう。それが私の伝えたい聴き方なんだな。

あ、途中で敬体から常体になってしまった。
これもまた、私の思考が外向きから内向きになっていく過程として一緒に体験していただけたら。

読んでくださってありがとうございます。

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