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ひたむきさと大自然が人を育む ~映画『巡礼の約束』~

※この記事はネタバレを含みます。ぜひ映画を観てからお読みください。
『巡礼の約束』公式サイト
チベットについてなんの予備知識もなく観に行ったので、まるで子どものように、目の前に繰り広げられる景色とドラマをまるごと受け取って帰ってきた。「これはあれだな」という経験に基づく解釈をさしはさむことができなかったのだ。ようやく言葉になりつつある。

冒頭からシクシクと泣く妻ウォマ。それを気遣って声をかける夫ロルジェが朴訥としすぎて最初気遣ってるのか怒ってるのかわからない。声の調子が強くて、どついてるようなタッチで「おい、何泣いてるんだ!?」という感じ。やさしく背をさするとかハグするとかじゃない。でもそれは私たちの身近にいる誰かに似ている表現方法かもしれない。

妻ウォマは、心をひらいたり預けたりしない。悲しみや悼みを内に抱え、病とともに旅立つ決意をたったひとりでする。自己完結。離れている息子にも優しい声かけをするし愛しているのだろうが、それはねじれた寂しさを持て余す息子には届いていない。しかし母であるウォマはそのことを気に病んでもいない。世話をする義父には、旅立つ前に電動の髭剃りを渡す。嫁である自分の役割は、機械に代えられるものとでもいうように。ウォマに対して感じた不思議さの正体は、「良い母、良い嫁であらねば」という呪縛を一切感じないことだった。現代日本で女性向けのカウンセラーをしている私にとって身近な呪縛。
もっと言えば、人が人を所有していない。母が子を、夫が妻を、所有していない。ただ、みなそれぞれの生と愛にひたむきだ。相手がどうであろうと。
ウォマが心をひらいているのは、亡夫と、神様だけなのだろう。そして残りの暮らしと命を、巡礼に捧げることを選ぶ。

五体投地という強烈な礼拝方法を初めて知った。道路に身を投げ、尺取虫のように進む。介添え人を頼むシステムがあるくらい、当地ではこの方法で聖地を目指す人が一定数いるのだろう。旅先で出会う家族も、巡礼を応援しリスペクトしている様子がうかがえる。

彼らのコミュニケーションのひとつにお茶を沸かして飲む、というシーンが何度も出てくる。旅の途中、火を焚いてお茶を沸かす。応援してくれる家族がお茶を差し入れる。なんと奥ゆかしく根源的なサポートと交流方法だろう。

全員の頭上に空があり、足元に大地が広がっているように、彼らには信仰がある。大自然の中で、必要以上の干渉を持たずに共に歩く。ひたむきに。その中で人々はただ年長者を介護し、年少者を育てる。人に(自分自身にすら)コントロールを向けない。ただただ共に歩く中で人は育ち、命を終えるのだ。清々しい。

ウェットな人間関係に疲れた時、俗世の目標達成や生産性を上げていくことに意味を見いだせなくなった時、この映画には圧倒的な爽快感・解放感があるのではないだろうか。彼らの心に目指す聖地があるように、この映画の風景を心の深いところに置いておこうと思う。

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