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7. 私たちは路上にいたんじゃないかな

「広場としての役場」の話につづけて)以前、批評家で編集者の藤原ちからさんが書いた「『広場』を生み出す演劇の可能性」という記事を見かけ、とても面白く読んだ。こんな書き出しで始まる。

マンハイムのホテルでは、トルコから来たチームとしばしば朝食を共にした。彼らの作品は、イスタンブールのタクシム広場を題材にしていた。「日本にはそもそも広場がないからね……」とわたしが嘆くと、「じゃあいったい、君たちはどこでデモをするんだ?」と驚かれた。

SYNODOS|「広場」を生み出す演劇の可能性――テアター・デア・ヴェルトの事例から

トルコにおける「デモ」の日常性が感じられる言葉。日本の私たちと違うな…と思いながら読み始めた。藤原さんはこうつづけている。

広場がない、という言い方は正確ではない。皇居前広場を始めとして、小さな駅前広場に至るまで、各地にスペースは点在している。だが、西洋的な意味での広場、すなわち、デモであれ魔女裁判であれ、多様な民族・言語・宗教からなる公衆たちが数々の祝祭的・政治的な行為を果たしてきたという意味での広場は、日本にはおそらく未だかつて存在した試しがない。

いやそうかな? 藤原さんに物申したいわけじゃないし、確かにいまはない。けどあったと思う。日本にも広場が。西洋と違う形で。

それは「大通り」であり「辻(つじ)」であり、つまり街道や道という往来の空間が、そのまま広場性を持っていたんじゃないか。それもついこのあいだまで。人間の空間だった「道」が、クルマのための「道路」になっていった過程をある駅前に見てみたい。この古い写真は、国立の商店街の写真店に飾られていた。

どちらも中央線・国立駅前。一枚目は大正15年で、二枚目は車や服装の感じからすると1960年前後だと思う。

この広場性はなんですか? 昭和(二枚目)になっても、みんなロータリーの真ん中を歩いている。現在の国立駅前を知っている人は「えっ」と思うんじゃないか。

しかもこの、駅の改札を出てから道路までの段差のなさはなに? 「ここまでは歩道」「ここからは車道」という区分がまだ不鮮明で、中山道妻後宿における、土間とおもて通りのつながり方を見ているような感覚。
わずか60年前の、人と車のこの併存ぶりはなんでしょうか。

日本人はついこの間まで、大手を振って道を歩き、路上で生きていたんだな。道路でなく「わたしたちの空間」として。F.L.ライトの「帝国ホテル」の仕事を手伝いに来た若きアントニン・レーモンド(建築家)は、船を下りて初めて目にしたその社会をこんなふうに描写している。

1919年12月31日の日本到着の夜、横浜から東京までの道、封建時代の名残をとどめた狭い村を車で通ったことを、私は決して忘れることができない。

その村々の道の両側には、しめかざりの環や提灯がぶら下がった松や竹が並んでいて、陽気で単純な喜びの雰囲気に包まれていた。商店は道に向かって開け放たれ、売る人買う人共々、茶をすすり、火鉢に手をかざしながら親しげに座っていた。

派手な着物の若い人々は、道の真ん中に陣取って、いろいろ楽しそうな季節の遊びにふけり、私たちの車はほとんど進めないほどであった。この15マイルに3時間半を要した忘れられない旅行の間に、私は日本の建築の最初の研究を始めた。

『私と日本建築』 A.レーモンド著 鹿島出版会SD選書より

その後、社会全体で車が増えて、歩車の分離は公然とした社会課題になってゆくわけだけど、交通安全等を口実に私たちはなにか大きなものを奪われて、あるいは差し出してそのままになっている気がする。

この、道の「道路化」と「広場のなさ」は、都市のお話というわけでもないと思う。自分には、神山でよく考えることの一つになった。(つづく)


*SYNODOS|「広場」を生み出す演劇の可能性――テアター・デア・ヴェルトの事例から|2014.08.15
https://synodos.jp/opinion/society/10223/