原田泰治美術館に行った

最近、美術館や博物館に行くのが楽しい。静かだし、最初に入館料を払ってしまえば、あとは他人と接する必要がないというのは、私のような精神障害持ちには嬉しい。なにより綺麗なもの、技術的に優れているもの、歴史的価値があるもの、知識欲を満たしてくれるものを見るのは純粋に楽しい。

今日は原田泰治美術館に行ってきた。そのお名前と作風は知っていたけれど、しっかりと作品を鑑賞したのは初めてだった。温かみが感じられる色使いと滑らかなタッチは心がほっこりする。それでいて、細かな花を大量に、ひとつひとつきっちりと描いた絵は、穏やかな田舎の風景なはずなのにエネルギーにあふれていて、思わずのけぞってしまいそうだった。

しかしまぁ、私の拙い言語感覚で感想を述べては、かえってその素晴らしさを貶めてしまうかもしれない。それに、まったく失礼ながら作品よりも印象深かったのが、館内で放映していた原田さんの人となりを紹介するビデオで本人が語っていた、ひとつのエピソードだ。

原田さんが高校生のとき、クラスメイトのAさんという女性が弁論大会の出場者に選ばれたのだが、彼女は「私は赤面症だからできない」と訴えた。しかし、周囲は選ばれたからにはやれと言って許さない。そこで原田さんは、「それは足の悪い僕(原田氏は足に障害を持っている)に、マラソン大会に出ろと言っているようなものだ」とクラスメイトたちを説得したそうだ。

この話のオチは、その熱弁があまりに素晴らしかったため、担任の先生から「君が代わりに出場してみては」と言われ、本当に出場したところ優勝してしまった……そうなのだが、まずは原田さんが赤面症という精神的な疾患を、ご自身の身体的ハンディキャップと同等に考えていたという点に感動してしまった。

私が場面緘黙症の症状に悩んでいた子供のころでさえ……いや、現在でもいまだに、精神疾患を疾患と認めず、「そんなのは気の持ちようだ」と考えている人は確かにいる。周囲にそう扱われて、自分を責めて、卑下して、鞭打って苦しみながら生きてきた人も、きっといる。私がそうだ。

Aさんは、どれだけ嬉しかったろう。それは弁論大会に出ずに済んだという喜びではなくて、原田さんが許してくれたこと、認めてくれたこと、信じてくれたこと……きっと嬉しかったはずだ。実際には、原田さんはAさんに淡い恋をしていて、「好きな人を助けてあげたい」という気持ちからの行動だったそうだが、精神疾患を認めて許したことは事実だ。

そして、話のオチである“代わりに出場したら優勝してしまった”という点。この優勝は、足が不自由だった原田さんが初めて手にした賞で、大きな自信につながったという。マラソン大会で優勝できなくても、弁論大会で優勝できれば、それで十分ではないか。

例えば、赤面症のAさんがあのまま弁論大会に出場していたら? その症状によって失敗をして、トラウマを抱えたり赤面症を悪化させていたかもしれない。「案外、うまくいってたかもよ?」なんて、外野は軽々しく言ってはいけない。彼女が「自分には無理だ」と言っているのだから、無理なのだ。周囲が無理強いして苦痛を与えるのが、彼女のためになるか? そんなのは思い上がりだ。

担任の先生が、偶然だったとしても原田さんの弁論の才能を見抜いて、良いきっかけを与えた。教師のように導く立場だったらその才能を伸ばす手助けをするのも仕事だろうが、とりあえず普通の人は足を引っ張ったり否定しない。それが本当の、その人の“ため”だと思う。

美術館に行って、作品に対する感想ではなく作者の過去のエピソードに対しての感想……。しかし、私はこのエピソードを、原田泰治さんを知れたことが、今日一番の収穫だった。

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