場面緘黙の私ができること①文通

「できないことより、できることに目を向けて生きていこう」

文通を始めたのも、その考えから派生した思いがきっかけだった。私は場面緘黙症だったこともあって、学生時代はもとより、必要最低限を話せるようになった今も、対面では他人とうまく会話ができない。でも、文通なら?文字を介してなら、おしゃべりができるのでは?友達ができるのでは?と。

日記を読み返すと、ちょうど1年前、日本郵便の青少年ペンフレンドクラブへの入会手続きをしていた。しかし結局、入会するだけして、実際に文通を始めたのは先月。1年かけてようやく重かった腰をあげた。

場面緘黙症だと明記して文通相手を募集したところ、予想外に多く(と言ってもほんの3~4人)の、同じ疾患を抱えた人からお手紙をいただけた。他にも、趣味が同じという人からも。

世界は広いな、と思った。同じような苦しみを味わった人が確かにいたし、対面では話せなくても誰かと交流することができている。

学校では、友達がいないこと・話せないことを責められ、奇異な目で見られ、疎まれた。しかし、直接、顔を合わせて声を介しての交流によって築かれるものだけが、“尊い友情”だろうか。・・・そんなことはないと思う。友情の築き方にだって、色んなパターンがあって、個人に合わせた形があるんだと、30歳を過ぎてやっと知ることができた。

それから、同じ緘黙の症状をもつ人でも、ひとくくりにはできないのだと知った。「なんだか波長が合うな。似ているな」と感じるお手紙の人もいれば、「雰囲気がぜんぜん、自分と似ていないな」と感じるお手紙の人もいる。私はすっかり、自分が“緘黙症の人”のモデルケースだと思い込んでいた。けれど、つまり、私も枠にはハマらないということだ。誰かと比較する必要はないのだと、改めて感じた。

なにより、文通は楽しい。こんなに楽しい世界があったのか、私は狭い世界で勝手に孤独を感じていたのだな、と思う。レターセットを選ぶ段階から楽しいし、普段の何気ない日常から手紙のネタを探すのも楽しい。可愛らしい封筒で送られてくれば、受け取ったときに思わず顔がほころぶ。文字のクセや文体の雰囲気から、“自分ではない誰か”を感じるのが楽しい。

「もっとはやく、文通というツールを知りたかった」というのが、最近の口癖と言っても過言ではない。だから、このツールを知らない人に、特に私のように対面ではうまく他人と交流できないと悩んでいる人に、この文章が届きますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?