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偏見を捨てるべからず(2019/07/31+12/07)

松谷は落ち込んでいた。

プロットを書けば書くほど、面白いと十分に自信が持てるものにできていない事実に直面し、その原因が自分の人間性と無関係でないことが分かってしまうからだ。

今書いている話の骨子については自分でもブレイクスルーができたという手ごたえがあり、それなりに面白くできたのではないかと思っている。
だがそれを演じるキャラクターの魅力が、圧倒的に足りないと感じている。
自分が書いたキャラ設定も、その台詞も、ファジーな部分が多すぎて全体的にぼやけているのだ。

それが何故かと自分に疑いのメスを入れる。

原因を捜すのは得意な方なので、直ぐにそれらしいものは見つかった。
他人を「偏見」で判断し、決めつける行為をネガティブなもの=悪いものだと認識し過ぎたことで、なるべく自分の中から排除しようと長年してきたからなのだ。

なぜ排除しようと思ったのか?

それは自らの偏見で他人に不快な思いをさせた経験や、パソコン修理サポート業務における「確実であることだけ断言し、そうではないことは責任が取れないからこそ濁すか逃げる」を是とし過ぎたからだ。

「責任感があるから、責任がとれないことには触れない」というスタイルは、他者からしたら責任感がある「ようには見える」かも知れないが、それをしている本人が馬鹿でないならば、それががらんどうであることに気付くはずだ。

似た仕組みのスタイルに「有言実行を徹底しているから、なるべく有言しない」というものがある。これは失敗してしまった場合、実行できなかった場合に「有言していないから」と言えてしまう狡さがある。

これらに共通するのは「マイナスを出さないことがプラスであるという誤解」である。

最初から意識の向かう先が間違っているのだ。
責任感がある人間ならば、いや、「自分の人生に責任感がある人間ならば」リスクを負うことでしか得られないものがあることも、有言することが自分にもたらすメリットも知っているハズなのだ。

「責任の取れる範囲の拡張」をしている人間が、責任感のある人間なのだ。

話を「偏見」に戻そう。
そもそもの語源は「自らの主観による、偏った悪い印象を持つこと」であるからこそ、それを状況に応じて考え改めることができるなら、偏見そのものが悪いわけではないのだ。

そもそも好意的偏見という言葉もある。
が、一般的なイメージとしては悪い印象が殆どであることも事実である。

だから、そうした良くない要素を自分の中から取り除くことで、松谷は良い人間になれるのだと勘違いをしたのだと思う。

「自分がどう思うか?」には、良い面も悪い面も含まれるわけで、それを自分の中から排除してしまったら、それこそ「良くも悪くもないところ」しか残らない。

他人をどう思うか、どう感じるかが実像と違っていたと気付いたら内省すればいいのだ。

失敗からアップデートをして、精度を上げてゆく方が前向きなのだ。
主観と経験から得た情報は絶対必要だし、それをフォーマット化して自分の中に手ごたえを作りたいと思うのなら、

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2019年7月31日に書いていた文章はここで終わっていたので、読み返して続きを書き足してみる。

12月07日である今日、僕は自分が今年書いていた「吐き出し文」というフォルダに格納されたテキスト群を見て、もっとわかりやすい回答になりえるものを得ることができた。

それは、「本音は響く」という確かな実感だ。

「吐き出し文」は僕の正直な、とても人には見せられないぐちゃぐちゃな感情を書きなぐったものだ。それでも一応、オチを用意してどれにも着地点を用意しようとしている姿勢に、自分のことながらがんばっているなと思った。えらいなと思った。そしてなにより、自分の書いたもので自分が救われ、素直に面白いと感じれたのが嬉しかった。

それもそのはずだ。自分の感情の動きに対して正直に出力したものだからこそ自分の心は動くし、プロットとしても破綻していない。
テーマ自体が僕にとっての真実だからだ。

「面白いものかけるじゃん!(自分にとってだけど)」

エンタメを保障するためには、上手な嘘が吐ける必要があるのだと僕は考えていた。それは間違いではないが、テーマさえも嘘であっては上手く行くハズもないのだ。

あと、7月の文章では自覚できていなかったが、松谷は「偏見」を持たないよう努めた結果「主観」も捨ててしまったのだと思う。
「偏見」を内省によって補正すれば「主観」にできるはずだ。

もっともっと吐き出そう。

偏見を手放しはてはいけない。

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