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気持ちに変化を起こせる行動はアートだ

何か行動をしたら必ず変化がついてくる

意識高い系のツイートにありがちな話題だが、まず行動と変化の話。

具体的に、なんとなく恋愛を例にして、行動とそれに伴う状況の変化を考えてみることにしよう。

行動:AがBに告白する
⬇︎
変化1:AとBがつきあう
変化2:AがBにフラれる

告白する時って、変化2のパターンが怖くて、Aさんはだいたい行動を起こせずに縮こまってるわけだよね。

AさんのAは「あなた(ANATA)」のAだし、「あたくし(ATAKUSHI)」のAかもしれない。

もうひとつ。

日々SNSのどこかで誰かが炎上している昨今なので、こういうのはどうだろう。

行動:Aが意見を表明する
⬇︎
変化1:BがAを批判する
変化2:CがAを理解する

僕の退屈な観察によると、往々にしてBさんとCさんは同時に発生する。

炎上なんて一度も体験してないくせに、僕は思う。

こういうときは、Bさんのいうことなんか無視しちゃって、Cさんの言うことに耳を傾けよう。

Aさんがボーカリストだとしたら、Cさんと美しいハーモニーを奏でることで、素敵な世界を作るべきだ。

だいたいBさんのBなんて「ブス(BUSU)」とか「バカモノ(BAKAMONO)」のBに決まっている。

ではCさんのCは何なのかというと、もちろんCHAGEだ。

なんだかんだで結局、CHAGEがAさん(ASKA)にとって一番の理解者だ。

何が言いたいかっていうと、「行動したら変化が起こるのは当たり前」ということ。

もっというと、変化の起こらない行動なんて、行動じゃない。

 No action, no change.

当たり前のことでも、英語でいうとそれっぽいでしょ。

状況が変化したら必ず気持ちがついてくる

状況が変化すれば、ある程度当然の帰結として「気持ち」が動く。

①AとBがつきあう
⬇︎
・うれしい
・戸惑う
・天狗になる


②AがBにフラれる
⬇︎
・かなしい
・さみしい
・すっきりする

ちなみに、人間は矛盾した生き物だ。

①の場合、「嬉しいけれど戸惑いつつ、なんだかんだ天狗になる」みたいなこと、よくある。

周りからイタイと言われるかもしれないが、恋愛当事者の特権だ。

思い切りのろけたり、痴話喧嘩で周りに迷惑を撒き散らそう。

僕はそういう周りが見えてない、がむしゃらな恋愛、大好きだ。

雨の中を傘もささず、ただひたすらに走れ。

②の場合、「悲しいし寂しい、でもなんだかスッキリしたかもしれない」なんてこともよくある。

それはそれで歌心のある「気持ち」だと思う。

思いっきり矛盾を楽しみながら、楽になってほしい。

5年前の僕に、そう言ってやりたい。

なぜだかキザな気分になってきたので、自分で自分がとても気持ち悪い。

気持ちには人間があらわれる

さて、ここでようやくそれっぽいことを言おう。

「気持ちには人間があらわれる」

太字でセンターにしたけれど、見出しで言っちゃってる。

まあよい。

人によって、「嬉しい」「戸惑う」「天狗になる」という3つの要素が、どれくらいの割合でブレンドされる傾向にあるのかは様々。

そのブレンド具合が、どのくらいの振れ幅で行ったり来たりするのかも、本当に様々。

なので、いろんな場面で人間観察をしていると面白い。

なるほど、この人はこんな反応をするのか。

あれ、意外とこんな感じになる日もあるのね。

…みたいな。

それってアートでしょ

恋愛の中で起こる一瞬一瞬の気持ちについて「これは喜びだ」とか「悲しみだ」とか言ってる場合じゃない。

だいたいのことは、終わってから、「まあ色々ありまして」だ。

「言葉では明言し難いこと」ってやつと、どうやって向き合うか。

言葉では明言し難いのに言葉でしか考えることができない。

人間って、つくづく不器用な生き物だと思う。

でも、そんな矛盾と向き合い続けていると、時々、パッと自由になれる瞬間がある気がする。

なんというか、言葉の限界は頑としてありつつも、言葉の積み重ね方によっては、言葉を縛りつけるロジックの枷から自由になれる瞬間っていうのがあったりする…気がする。

あくまでも、「気がする」だけなのだが、気がするんだから仕方がない。

やっぱアートでしょ

僕は、確か幼少期から「人間には脳と心がある」と教わって育った。

ただ、最近の科学では「どうやら心の動きも脳内物質によるもの」ということがわかってきている。

実際、メンタルクリニックで診てもらうと、結局はセロトニンの分泌を促す薬品を処方してもらえる。

これは対症療法的な発想だとしても、「心」を脳が制御していることを示す最たる例だと思う。

比喩的な意味で、脳の受け取る感覚が麻痺するような状態を作り出せれば、きっと言葉を超える何かを感じた「気がしてしまう」はずだ。

それができるのは、やっぱアートでしょ。

行動こそがアートかもしれない

「恋愛はアートだ」と言ってしまうと、あまりに陳腐だし、耽美的にすぎるかもしれない。

(耽美的ってのは、美しさに酔いしれているだけみたいな感じ)

でも、恋愛以上に脳を麻痺させるようなカラクリは、他には無いとも思う。

それだけに、ちょっと極端すぎる例なのかもしれないとは思う。

でも、修羅場をくぐり抜けると人は器が大きくなるって言うし。

器の大きさって言うのは、気持ちをコントロールできるキャパシティのことのような気がするし。

だから、恋愛を例に話を進めてみたのは、あながち間違いではなかったはず。

恋愛の告白とか、SNSでの意見発信とか、世界の大きさから言ったら些細なことのように思えるかもしれないけれど、些細な行動ひとつひとつが、誰かの気持ちを変えていけるのならば、それは立派なアートだと思うわけです。

この文章が誰かの気持ちに少しでも変化をもたらせれば、大成功ですね。

Aさん(ATAKUSHI)からは以上です!

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