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病歴29:意識を失う

「救急車を呼んだ方が…」
「車椅子を持って来ましょうか」
「いや、部屋まで運んで」
ざわざわと声が聞こえた。
パートナーの声と、若い女性のスタッフの声。
目がうまく開かない。
ホテルの一階にあるレストランだ。
食事を食べている最中だった。
椅子にもたれて目を閉じている自分を、斜め上から見下ろすように見ている感じがする。
カメラを回すように視点を回せば、パートナーとスタッフが二人、話している。
意識が自分の身体に戻る。頭から汗をひどくかいており、たらたらと顔の横を流れていくのを感じた。
目は見えにくい。体が動かない。声が出ない。
だが、部屋まで戻って休めば大丈夫だと伝えなければ。

3回目の抗がん剤治療を受けて、最初の3日目は予想外に動けた。痛みもそこまではない。吐き気もがっつりと服薬で抑えられている。
当日は点滴に含まれるアルコールでテンションが高めとはいえ、それなりに、翌日も、翌々日も家事までこなすことができた。
徐々に痛みが強くなり、不調を感じ始めるのが4日目ぐらい。
すねの半ばあたりまで、痛みを感じるようになる。ショートブーツぐらいの範囲だ。
くるぶしのあたりに刺すような痛みが走り、足の裏は裸足で砂利道を歩くような痛みが続く。
痛い上に、踏ん張れず、よろめく。歩きにくいのも、砂利道のような体感だ。
痛みが強いと、一つ一つの動作が億劫になる。気も散りやすく、置き忘れなどの忘れ物が非常に増えた。自分でも驚くほど、注意を保持できない。
今回は、ロキソプロフェンよりもアセトアミノフェンを主として使うように処方されていたので、ちょいちょいと鎮痛剤は使いながらやり過ごした。

先に気になったのは、腹部の不快感のほうだったかもしれない。
3クール目は、2クール目よりも食事は食べることができていた。
吐き気もしないし、味覚もそこまでひどくない。
とはいえ、吐き気止めがなくなると、途端に胃腸が動いていない気持ち悪さを感じるのだ。
空腹時はまだよいのだが、食後、しばらくして、腸のあたりが気持ち悪い。
体の中にだらりと弛緩して、ふくれた長いものが横たわっている不快感としか、言いようがない。
特に、横隔膜に近いあたりで存在感が大きく、臓器があるべきところに収まっていない不快感は、寝ても起きてもそこにあり続ける。
肋骨の内側から外に向かって圧力がかかるような感じが気持ち悪くて、自分で自分の体を押さえて我慢する。
痛みではないし、吐き気でもない。
ただただ、体感が不快なのだ。

この腹部から胸部にかけての気持ち悪さは、だいたい、抗がん剤治療を受けてから10日間ぐらいまで続く。
気持ち悪くて、胃腸の症状にあわせて処方された薬をあれこれ服むのも、よろしくないとは思う。
わかってはいるが、食事量の減る抗がん剤治療直後は、排泄も少なくなる。
吐き気をおさえる薬、胃痛をおさえる薬、便を柔らかくする薬、排便をうながす薬など、その日その日の状態にあわせて使い分けるものが多い。
食べて適切な量も、日替わり状態だ。ほんのひとくちふたくちで満腹に感じて、3-4時間後には激烈に空腹を感じて気分が悪くなることもある。
満腹を感じるまで食べてみたら、その後、ちっとも消化できないような、上記の不快感がじわじわと襲ってきて気持ち悪くこともある。
味覚の異常はあまり感じずにいたが、食べても食べなくても、苦労するので、食べることがだんだんと嫌になってきた。

その日は、外出していたため、昼食をかなりしっかりと食べた。
たくさんのサラダもいただいたし、島唐辛子のアラビアータも、ブロッコリー入りのカチョエペペも美味しかった。
なかなか空腹にならず、それでも、お店が閉まってしまう前に、夕食を食べに行くことにした。
コブサラダをシェアし、羊肉の串焼きをシェアした。
サラダまでは食べられたけれど、思ったより、お肉はもう入らない。
あとはパンをひとくちでも食べられたらいいなぁなんて思っていた。
パートナーがメカジキのカツレツを追加したあたりまでは記憶にある。
それは食べる自信がないなぁなんて考えていたもの。
気づいたら、意識を失っていた。
周りのざわざわとした声が徐々に耳に入り、なんとか目を開けるが顔を上げることができない。
こういう時に聴覚から知覚することを思うと、亡くなる方のベッドサイドで、「耳は最後まで聞こえているので話しかけてあげてください」と言われるのも、本当なのかもしれないなぁと思う。

身動きも、声もなかなか出せなかったが、意識を取り戻したことに気づいてもらえた。
抱きかかえられるようにして車椅子に載せてもらい、ホテルの部屋に移動する頃には、だいぶ、普通に戻っていたように思う。
吐き気はなかったが、念のため、しばらくトイレにこもった。
心配したホテル側が、部屋にたくさんの飲み水と氷を差し入れてくださった。
その後は数時間、横になって休み、水分を摂っては休み、そうするうちに、心身共に落ち着くことができた。
パートナーのほうが落ち着かない思いをしただろうし、レストランで隣に座っていたカップルには本当に申し訳なかった。

その一件があったほかは、第3クールは第2クールの繰り返しに近い。
4日目頃から出現した痛みは、8日目から10日目にかけて改善する。
ずっと座りっぱなしで足がむくんでくると、痛みが強くなることもわかってきた。
歩行時に、素足で砂利道を歩いているような足裏の痛みとおぼつかなさは、すっかりデフォルトで、日にちが経っても減りはしない。
動悸は以前よりも強くなった。ちょっと睡眠が足りなかったり、疲労が蓄積してくると、100以上、時に130ぐらいの脈拍になる。
息苦しさや胸痛を感じることが多く、ちょこちょこと横になって休むようにして対応している。そのため、活動できる時間帯が短くなってしまった。
仕事中も、移動すると息が切れるので困ったものだ。
とはいえ、座りっぱなし、横になりっぱなしで、フレイルになっていくのも怖いので、できる範囲で歩くことは心掛けている。

6月24日に、婦人科と緩和ケアを受診した。
次の抗がん剤治療のために、体の回復具合を見るための受診だ。
赤血球や白血球は減っているが、治療が必要なほどではない。肝機能も少し悪いが、そこまでではない。
ということで、4回目の抗がん剤治療にGoサインが出た。
それはいい。意識消失をした出来事を伝えると、婦人科の主治医の顔色が変わった。
最速で頭部MRIの予約が取れる日が、次の抗がん剤治療の翌日で、その日に検査をすることになった。
次に、緩和ケア内科でも同じことを報告した。脳波じゃないんですねーと言いながら、頭部外傷の既往は小学生の時に交通事故にあった時ぐらいなどと報告もしておく。
緩和ケア内科の医師は、まず頭部MRIをしましょう、できれば今日やってしまいましょう、と、予約をねじ込んでくれた。
なんだかおおごとになってしまって申し訳ないけれど、MRIは痛くない検査だから平気。
ずんどこずんどこと、大地を踏み鳴らすダンスが似合いそうだなぁと想像しながら、20分間、居眠りを我慢した。

検査結果は、後日。
次の抗がん剤治療を受ける7月4日に聞くことになるだろう。
アメリカの独立記念日だなぁ。
でも、個人的にはその前の皮膚科の日帰り手術のほうが怖くて仕方ない。
局所麻酔なのが嫌だなぁ。安定剤を握りしめて行くしかないかなぁ。

なお、意識を失くした日、ほんの少しだけ、グラスに半分ぐらい、白ワインを飲んでいたことは、お医者さん達には言えなかったのでした。
ほんと、お騒がして申し訳ない。

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