見出し画像

病歴⑤:再々発

2019年は、不安から始まった。
2018年12月に受診した時に、腹水が増えていると指摘されたのだ。これで一気に不安が高まった。
秋頃から急に体重の増加して気になっていた。食事量に変化はないつもりだが、じわじわと体重が増えて止まらなかった。
そういう時は要注意だ。
次の予約は4月と言われたが、1月に再度受診。主治医には心配いらない、体重増加は肥満だと言われた。
違う意味で、ちょびっと傷ついた。

肌のアレルギー対策として、耳鼻科で花粉症のために処方されていた薬を、飲みなれたものから違うものに替えてもらったせいだろうか?(抗ヒスタミン薬のなかに肥満をもたらすものがある)
有賀薫さんの豆乳+卵+めんつゆだけで作るスープの簡単さと美味しさにはまって、せっせと豆乳を摂りすぎたのだろうか?(適量は1日200cc。それぐらいしか摂取していなかったはず)
それとも、ホルモン充填療法のせいだろうか?(エストロゲンは体重増加にもかかわるが、私の使用していたエストラーナテープの副作用に肥満は含まれない)
運動は確かに減っていたかもしれない。この頃、私はヨガに通っていたが、馴染みのインストラクターが辞めてから、筋トレ系のクラスに行くことを辞めて、リラックス・ストレッチ系のヨガに行くことが増えていた。回数も週に2回通っていたこともあるのに、月2-3回まで減っていた。

あれこれ考えては、なるべく生活を元通りにして、原因をつぶそうとした。
アレルギー薬は飲みなれたものに戻してもらい、朝食の内容を見直し、以前と同じようにエアリアルヨガに行ってみた。
エアリアルヨガというのは、天井からつるしたハンモックを利用しながらポーズを試すヨガだ。アシュタンガほどハードではないが、体が固くてもいろいろなポーズを試せるところが楽しくて、通うようになって3年ぐらいが経っていた。
このハンモックを鼠径部の部分にあてて取るポーズがいくつかある。下腹部に食い込んで、かつてないほど痛んだ。
手術の後にむくんで下着が食い込んだ時のような、覚えのある痛みだった。
自分のからだに何か起きている。そのことを私は感じていた。

4月に受診した時には、医師から何度か促されていたホルモン充填療法の中止に向けた減薬に同意した。
老化を遅らせることをやめるという意味で、非常に勇気のいる決断だった。
8月に受診した時には、ホルモン充填療法も加味逍遙散もどちらの処方も中止になった。そして、次は2020年1月にCTで異状なければ治療終了しようと言われた。
この頃の私は更年期障害の患者として扱われていると感じていた。5年が経ったからこそ、今から再発が心配な時ではないかと思ったが、医師は断固たる態度で取りつく島がなかった。

だから、病歴③に書いたことと重複するが、医療機関によって役割がある、病院は入院と手術が必要な人の場であり、自分はそうではないのだから、と考えを切り替えることにした。
これまで通ったことがある近医婦人科ではなく、がんの経過観察をしてくれる婦人科クリニックを探そうと思った。数年で主治医が交代する病院ではなく、もう少し親身になってくれそうな開業医を探そうと思った。
ただ、他院に受診するのは、1月になって最後の受診で紹介状なりを書いてもらうほうがいいのか、先回りしてドクターショッピングしておいていいのか、迷った。
それで、先に、主治医にはなかなか相談できない腹部の違和感の原因をつぶそうと思い、胃腸科に受診した。胃と大腸の内視鏡検査を受けたが、どちらも異常がなかった。
漸増する体重、腹部のむくみや腫れ、食後の背中の痛み、便秘がちで、やっぱり右の下腹部が痛い。そういう警戒警報が、私の身体に鳴り響いていた。

同時進行で、関西に住む母の姉に婦人科がんが見つかり、治療が開始されることが起きていた。他の臓器への浸潤もあり、抗がん剤治療をしてから手術し、手術後に再び抗がん剤治療を行っていた。
出不精の母を引っ張って、関西には2度、見舞いに行った。
伯母を支える中心となった従妹とグループラインを作り、病状をシェアしたり、母と私で従妹を励ましたり、ケア帽子や非常食を送ったり。
このことは、その後、私が抗がん剤治療を受ける段になって、母にとってよい参考になったようだ。なんとなくの経過がわかり、しかも、伯母には効果があった薬と同じものを私が使うことになったので、きっと効果があるだろうと希望にもなった。
伯母の闘病が他人事ではなくなったのは、例によって秋のことだった。

10月21日の夜。
尾籠な話で申し訳ないが、血尿が出た。
初めてのことでびっくりした。
トイレに行ったら、水が真っ赤だった。鮮紅色というのか、きれいに真っ赤だった。
女性であるなら、生理の一番量が多い時を思い出してもらえると、近いかもしれない。
経血は固まりもあるし、水より重たく、下のほうに溜まる感じだが、溜まりつつも絵の具を溶かしたように真っ赤だった。
これぐらい繰り返したくなるぐらい、びっくりした。
頭が真っ白になったが、見間違いではなく、何度かトイレに行ってもやっぱり真っ赤だった。
飲酒していたので、自分で運転はできない。救急車を呼ぶべきなのだろうか。
救急車を呼ぶとして、搬送先は自宅近くの救急病院と、それとも、婦人科で受診している病院と、どちらがいいのだろうか。
ぐるぐると考えるがどうしていいかわからず、自宅近くの救急病院と、いつもの受診先にそれぞれ電話をしてみた。
救急病院は受け入れOKとのことだったが、受診先では夜勤の医師に電話を交代してくれた。内科医と名乗った人に症状を伝えると、受診してもできることが少ないので、朝まで様子を見て、朝になっても血尿が続いていたら受診するように言われた。

10月22日。即位礼正殿の儀のため、祝日だった。
ほとんど眠れない夜を過ごして、朝、トイレに行ってみた。量は減っていたが、血尿は続いていたし、なにより心配だった。
改めて、通院先に連絡し、状態を伝えた上で受診した。祝日のために、救急の対応になった。
尿検査、血液検査、腹部エコー。
若いスタッフが3人がかりで診察をしてくれた。膀胱炎だろうということで薬物が処方され、念のために翌日に同じ病院の泌尿器科を受診するよう、予約を入れてくれた。
腹部エコーの時、腸だと思うが蠕動していないところがある、とスタッフたちが額を寄せていた。それがまさに、異常な個所だった。

翌日は平日であり、出勤の予定にしていたが、事情を説明して、再び、病院受診。
泌尿器科の医師は、「そこは膀胱ではない」「婦人科に予約を取らないのがおかしい」と、前日の若い医師の判断に不満そうだった。
でも、私に対しては「痛みがあるならCTを撮りましょう」と勧め、その画像検査で膀胱に密着して直径3cmを超える腫瘍が見つかった。
その日のうちに、膀胱がん疑いとして婦人科にリファーされ、いつもの主治医の診察を受けた。
主治医、目を合わさないし。
その腫瘍が、これまでの腫瘍の再発なのか、新しく違う種類の腫瘍ができたのか、手術して細胞診しないとわからない。それは納得だ。
手術するしかないと言われたら、それ以外にないとも思う。できたものは仕方ない。雑草の種が再び育ったのだから、抜かなくては。
入院と手術の日取りを決めて、ようやく帰宅した。緩和ケアの心理的な支援も忘れずに希望した。

入院までは3週間あった。当初はぎりぎりまで働くつもりだったが、そこから急激に体調が悪化した。
虫刺されに気づいた途端に痒くなるのと、同じようなことなんだろうか。
座っていることがつらい、腹部がむくんで苦しくなる、下腹部に鈍い痛みが続く状態が始まった。
2週間かけて、仕事の整理と引継ぎを行い、入院の一週間前から休職して自宅療養に入った。
今度はしっかりと安静で。

その間、家族からはセカンドオピニオンを取らなくてよいのかと何度か尋ねられたが、そのために治療開始が遅くなるほうが損をすると思った。
日に日に倦怠感が強くなるなかで、病院を探したり、予約を取ったり、説明を一からしたりといった過程が、途方もなくしんどく感じた。
それよりもさっさと治療をするに限る。だって、標準治療があるのだから。

入院した翌日には3回目となる手術、またも開腹手術を受けた。
今回は病巣だけを取り除き、臓器をいじらなかったせいか、前回よりも痛さやしんどさは控えめで、入院期間も9日間と短った。
ただし、手術では取り除けない腫瘍が体内に残ったことを退院間際に知らされ、抗がん剤治療、それが終われば維持療法を受けることを話し合った。
通常、手術直後に家族が執刀医から説明を受けているはずだが、道理で両親もパートナーも何も言わないと思った。
いろいろ腑に落ちたが、抗がん剤治療という初めてのことは、地味にショックを受けていた。
なお、腫瘍はいつもの顆粒膜細胞腫の再発で、ほらやっぱり!と言いたいのを我慢した。
一旦は退院して、翌週には再び入院して、早速、抗がん剤治療が始まった。

そして、現在に至る。

サポートありがとうございます。いただいたサポートは、お見舞いとしてありがたく大事に使わせていただきたいです。なによりも、お気持ちが嬉しいです。