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あずかりやさん:桐島くんの青春

大山淳子 2018 ポプラ文庫

これは、セラピーの本だと思う。
心理的な援助職についている人が、自分たちが何をするか、見直す視座を与えてくれる本だと思う。
一冊目から予感のようなものはあった。二冊目はそれ以上だ。

 「困ったときはそこへ行こう」となぜだか思っていました。ふるさとのないぼくにとって、それにかわるような存在だったのかもしれません。他人のものを受け入れ、あずかってくれる場所がある。そのことが心に余裕のようなものをくれていたような気がします。(p.10)

これは、セラピーの本だと思った。冒頭から。
心理的な援助職とは、こういう機能を果たすものだということが、そのまま書いてあるように思った。
今、目の前にある関係でなくていいのだ。
心のどこかに繋がり、余裕をもたらすことができたら、いい。
治療者の姿勢を示されたように思った。ちょっとした衝撃だった。

桐島くんの青春というと、一冊目に登場した石鹸さんとの物語かしら?なんて想像しながら読み始めたのだけど、そんな具合に最初からやられてしまった。
一冊目が、和菓子屋だった頃の名残ののれんやガラスのショーケースが店について語ったように、今度は文机が語りだす。
お客さんの一人が語り手となるのは、青い鉛筆の物語。
「夢見心地」と題された、オルゴールの長い長い物語。古い細工物の持つ歴史は、中高年の心境と響き合う深みがあった。
そして最後に、桐島少年が主人公となる。初めて、桐島の「目線」で語られる物語だ。

不思議なものだ。
物語というのは、文章というものは、「目」で読む。
しかし、そこに綴られているのは「言葉」であるから、映像が示されているわけではない。
あずかりやさんの店主である桐島は、途中で視力を失った青年であるから、音や香り、手触りや気配といったものを大事にする。
本は目で読むけれど目に見せず、音や香りも再現するわけではない。
だから、きっと、文字でも難しいけど、「言葉」が、視力の有無にかかわらず、私たちを繋ぐ共通言語となる。
言葉だけがなれるのかもしれない。

桐島は少年だった時から、淡々としている。
ただ、受け入れることしかできなかったこと。否認することしかできかなかったこと。
変わってしまった世界の中で、変わらないものを保とうとする。
映像としては確認できなくなってしまった思い出を、違う形で記念して、残さざるをえなかった。
彼にとって写真は確かめようがなく、音もにおいも熱も手触りも残しようのないものであるなら、こうするしかなかったのだと思う。
それはとても、とてもとても、大事なものだったから。
その大事なものは何であったか、本書を読んでもらいたい。

もしもは現実になりました。もしもは未来にあるのです。夢は持っておくものですね。(p.165)
「もしも」は心残りです。その心残りこそが「夢」ですし、それがこの世に生まれた証で、宝物のような気がするのです。(p.170)

このような哲学に裏打ちされた、心根の美しい物語だった。

 *****

ここで感想を終えてよいのだが、もう一つだけ、付け加えておこうと思う。
これも「夢見心地」という短編からの引用になる。

見えない目標に向かって試行錯誤するのが芸術家で、見えている目標に向かって試行錯誤するのが職人なのではないでしょうか。(p.115)

artは芸術という意味と、技術という意味と、両方を持っているから、単純にわけることは難しい気もするが、私の中で連想が働いた。
悩んで心理療法を希望する相談者は、目標が見えない中での試行錯誤という点で、芸術家のようなものではないだろうか。
そして、そのような人を支援するという目標を見ながら試行錯誤する心理支援職は、職人でありたいと思ったのだ。
職人芸もまた芸術的であるように、人を支援する技術を磨き続けておきたいものだ。

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