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病歴②:再発まで

なにしろ、私は物知らずで、よく分からないまま治療を受け、よく分からないままフォローを中断していた。
私の病名は、顆粒膜細胞腫という。
最初の一年間は「卵巣嚢腫」と言われていたが、手術をして、細胞を調べて、顆粒膜細胞の腫瘍であると診断がついた。
それでも、私はのんきなもので、「まあ、いっか」としてしまったのだ。
手術を受けた病院ではフォローは近医でと言われたし、近医は来ても困ると言われたし、いいって言うならいいのかな、と。

卵巣嚢腫になる前、急激に体重が増えたことがあった。
顆粒膜細胞はホルモンの働きに関わるものであるから、体重にも作用するのだろうか。
はっきりとはわからないが、体重が急に増えることは、その後の再発、再々発の時も前兆のようになっている。

それが手術後、一年以上の痛みから解放された上に、生理不順もなくなり、驚くほど体調がよくなった。
貧血も徐々に改善して、半年も経たずに特に問題なく生活が送れるようになった。
だから、秋口になって、健康診断を受けたとき、内科医に卵巣破裂で出血1リットルの話をすると、「よく死ななかったね」と言われて驚いた。
そんなに危機的な状態だったとわかっていなかった。
無知って怖い。

2011年3月11日、その日は、近医の婦人科クリニックにいたことを憶えている。あれはなんのために受診したのだったか。
待合室についていたテレビの音声は控えめで、誰も注意を払っていなかった。
黒い水が田畑の上をすごい勢いで流れていく。堤防を越えて流れ込む海水に車が飲み込まれていく。
非常事態を示すテロップ。
いっそ作り物めいて、現実感がなかった。
私しかテレビに気づいていないことが異様で、「大変…」と声に出してみた。
その声で看護師が足を止め、私の視線を追って、テレビに目を止めた。他の患者も立ち止まって、テレビを見た。
でも、誰もぴんと来ない様子で、誰も騒がなかった。
誰もが一目では理解できない映像が流れていた。

それから更に2年。2013年のこと。
再び左下腹部に激痛を感じた。
その痛みには覚えがあった。
自分の腹のなかで異常なことが起きている。
目を背けることができないような痛みだった。

久しぶりに婦人科クリニックに受診した。以前の主治医はおらず、違う医師の診察を受けた。
その医師に、「卵巣を摘出したのは、本当に左? 左側に卵巣があるわよ」と言われた。
耳を疑って、もう一度、左側の卵巣は摘出したことを伝えたが、怪訝な顔をされた。
そして、手術を受けた病院に行くように言われた。

手術を受けた病院でも、以前の主治医は既におらず、若い男性の医師の診察を受けた。
左側の卵巣があった位置に、卵巣と同じぐらいのサイズの腫瘍ができていた。
この数年、定期的な検診を受けていないことや、私が十分に病気についての説明を受けていなかったことに驚かれた。
「医療過誤として当院を訴えますか?」と尋ねられたので、「それよりも、今度は最後まできちんと診てほしい」と伝えた。
医師は、私が裁判を起こすつもりはないと言ったことカルテに書き、その病院が責任もって治療にあたることを約束してくれた。
その医師からは、私の前医に対する怒りを感じた。だから、信用してみようと思ったのだと思う。
前回と違ってその日は帰宅することができたけれども、なるべく早い手術を勧められて、その場で一番早い日程で入院と手術の予約を決めた。

この2回目の手術をするにあたり、今度の主治医は、なるべく子宮や卵巣を残したいように言ってくれた。
私はまだ40代に入ったばかりで、閉経を迎えるには少し早い年齢だったから。
私はそれに対して、「再発の危険性をなるべく減らしてほしい」と返事をした。
前回の腹腔鏡手術で手術って意外と楽だと学習した私だったが、一生の間に何度も何度も手術するなんて御免だと思った。
子宮や卵巣がなくなれば、再発する部位がなくなるものだと考えた。
主治医は、痛ましいとでも言うような、そんな苦い顔をしてくれたのを覚えている。

結果として、再発した腫瘍は子宮に食い込んでおり、子宮と右の卵巣を虫垂などと共に摘出しなければならない状態だった。
今度は開腹手術で、麻酔から覚醒した時から、つらさも痛さも、前回とはけた違いだった。
手術の翌日に背中に入れた麻酔を取るが、この麻酔が切れてからが、痛さの本番だった。
「焼けた火箸を押し付けたような」と形容するが、腹の中にそんな熱さのような痛みがあった。
自分の腹の中に、どういう位置にどういう方向で傷があるか、だいたいわかる。
時代劇で、切腹した後に動くとか話すとか表情が変わらないとか、嘘だと思った。
主治医を蹴飛ばしたくなるぐらい、痛かった。
それが子宮を切り取った痛みだった。

手術の翌日から立つように、歩くようにと言われるが、体を動かすだけで大仕事だ。
ベッドの脇の柵を使いながら腕で起きるように教えてくれたのは、病室の清掃スタッフの女性だった。
自分も同じような手術をしたから、と教えてくれた。
この後も、馴染みの食堂の女性や、職場のビルの清掃スタッフの方など、たくさんの先輩たちが「私も同じ」と教えてくれ、励ましてくれた。
笑顔を浮かべ、元気に振る舞う女性たちの、なんと多くの人たちが、婦人科疾患を抱えていることか。驚くと同時に、先輩たちの存在が心強かった。

この時の入院は3週間ぐらいだったと思う。
病棟の中ではとぼとぼと歩けるようになってはいたが、自宅に帰ってからは驚くほど動けなかった。
おぼろな記憶であるが、退院したのは12月上旬。手術を受けたのは11月で、再発がわかったのは10月頃の話だったと思う。
復職したのは、年明けになってからだっただろうか。

復職時に最初からフルタイムで働こうとしたのは無茶だった。
開腹手術の手術跡は、へその脇から鼠径部にかけて縦に10㎝余り。
その傷跡が下着などでこすれると痛い。ガードルのような下腹部を支えるものがないと、動作によって傷口がひきつれたり、思いがけず腹筋に力が入ると左右に引っ張られ、その度に痛い思いをした。
かといって、衣服で腹部を圧迫すると、時間が経つにつれて腹部がむくんで痛くなる。腹部がむくむと、大腿部の付け根のあたりが圧迫される。朝はよくても夕方になると、下着やタイツが食い込む。リンパへの転移はなくて、リンパ節には触れていないにも関わらず、そういうむくみがつらかった。
座りっぱなしの仕事であるから、時間が経つにつれて、自分の重さが自分の傷を圧迫して痛みがだんだんと強くなっていくのがつらかった。姿勢を保つことに苦労して、クッションを買って背中に当てたり、肘置きにしたりと、微調整を試みた。当初は声の出づらさに困った。話す仕事をしているのに、一定のボリュームを保つことができない。相手に聞こえる大きさの声を出すことに、苦労した。
内臓の位置が変わったことが気持ち悪く、自分の身体への違和感が続いた。退院後の体重は手術前より5kg以上減っていた。服のサイズも変わってしまっていた。内臓の感覚も、身体のサイズの感覚も、違和感だらけだった。しかも、食べ過ぎると腸の癒着しあたりが痛むし、内臓の位置を意識しなければならないしで、食事自体も苦痛に感じやすかった。
運転時にはシートベルトが食い込むし、道路の小さな凹凸による振動が伝わるたびに痛かった。
体が冷えると痛みが強くなるし、歩こうとすると痛くなるし。職場の廊下を移動するときに、腹を両手で抱えてうずくまるようにして、身動きできなくなることもあった。歩くことが減り、筋力が弱り、姿勢が崩れ、ふらつくことが増えて、更に歩くことを苦手に感じるようになった。
痛みを我慢するために、左腰を背中側から押さえることが、すっかり癖になった。

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