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病歴④:更年期障害がやってきた

書くかどうか迷っていたことがある。
婦人科のがんというものは、ジェンダーやセクシュアリティと密接なつながりを持っている。
乳がんの人たちは手術が外見に及ぼす影響を苦にされるし、子宮や卵巣がんは妊娠出産に関わるものだ。たとえば、伯母はその夫から「女じゃなくなった」と言われたと嘆いていた。
この私自身のジェンダーやセクシュアリティに関わる部分は、とてもプライベートであり、ナイーブな話題だ。
書くかどうしようかは迷ったが、同業者の方が読んでくださっていることから、当事者の1報告としてお役に立つのであれば書く意味がある。

11月に手術を受けて、12月に退院した。
最初の3か月ぐらいは痛みとの戦いで、それが少し落ち着いてきた4月頃だったと思う。
腫瘍は取り除かれたはずであったし、仕事そのものについては問題を感じていなかったし、家族関係はいつも通りであるし、パートナーとの関係は途切れても仕方ないと思ったが、彼は心理的にずいぶんとサポートしてくれた。
にもかかわらず、不眠がひどくなった。短時間型の睡眠薬をそれまでも使うことはあったが、服薬しても眠れなくなった。寝ても、1時間ごとに覚醒する。
なにもないのに落涙するようになった。家でくつろいでいるだけなのに、涙が止まらない。
情緒のアップダウンが、自分の内的な活動と無関係に起きる。
これはおかしい、と思った。

主治医に相談したところ、更年期障害が起きたのだろうと言われたし、自分自身もそう思った。
そこから、ホルモン充填療法が導入された。500円玉よりも小さい楕円形のシールを貼るだけである。このシールの効果は2日間で、最初は3日1度の貼り換えで様子を見、アレルギーなどがなかったことを確認してから、2日ごとの貼り換えになった。
そんな小さなシールのおかげで、更年期障害の症状はずいぶんと楽になったし、老化を少しでも遅らせたいと思った私は、うっかり貼り忘れることのないよう、かなり気を遣った。
それからしばらく経って、どうしてもいらいらしやすい時があり、あわせて加味逍遙散も処方されるようになった。
それでどうにもならない時には、ドグマチールが頓服として私の味方となった。

2回目の手術から年数が経っても、薬が処方されているので3か月に1度の頻度で通院する必要があった。
4年目、5年目ともなると、処方されるだけの日とエコーで診察する日とが交互にあり、診察は半年に1度、CTは1年に1度ぐらいが適切なようだ。医師と会っているのに診察ではないと言われると、私はだいぶと混乱した。
主治医が交代するうちに、腫瘍マーカーを調べるはずの血液検査が更年期障害を調べる血液検査と勘違いされてしまったのではないかと疑っているし、処方の内容から卵巣がん後のフォローが必要な患者ではなく更年期障害の患者と認知されるようになっていたのかなぁと、思ったりする。
医師に対する不満や不信を抱くこともあったが、私はまた再発した時を見逃さないように、通院を続けた。

卵巣は女性ホルモンを分泌する。卵巣を摘出するということは、人為的に閉経させるようなものだ。
そのホルモンはエストロゲンだが、この血中濃度が低下することによって、抑うつ症状やホットフラッシュといった更年期症状が出現する。更年期症状は、老化の開始に向けての過渡期だ。
老化は様々な部分で身体が変化することだ。コレステロールや中性脂肪の増加といった脂質代謝異常や、声が低くなり、白髪が増え、老眼が進み、肌にしわやしみができやすくなり、骨粗鬆症になりやすく、膣の萎縮や性交痛も出やすくなる。
どれも、あまり嬉しくない。
実際にホルモン充填療法を行っていても、白髪は増えたし、老眼も進んだ。声も低くなったと自分では感じている。
そういう自分の身体の老化がこれから始まると意識せざるをえなかったことで、私は自分の変化にますます過敏になった。
気づくたび、粛々と受け止めなければならない。

アレルギーが増えたことには難渋した。
顔の皮膚が刺激に敏感になり、発疹や赤み、痒みが出るようになった。ひどい時には、日光や自分の汗が刺激となって悪化した。PM2.5がひどい日の大気にも刺激を感じた。
皮膚科に相談しながら、シャンプーとリンスを変えた。いろいろ試して、アレッポの職人さんが作るオリーブオイルとローレルの石鹸と、お酢をリンスにして、椿油を適宜使うことが、肌への負担が軽く感じ、一年ぐらいそうやった。その後、通販のシャンプーに替えてみたが、石鹸+酢の時のほうが髪質はよかったように感じている。
化粧すると肌荒れが悪化するので、だんだん、顔に何かを塗布することが怖くなった。特に、化粧落としが負担になりやすいようだった。2eという資生堂の低アレルギーのシリーズに助けられた。ファンデーションはやめて、赤ちゃん向けの日焼け止めローションとルースパウダーの組み合わせに落ち着いた。眉や口紅はこれまで通りにして、化粧を落とす時は椿油でマッサージして落とし、同じく2eの低アレルギーの石鹸を用いるようにした。
基礎的な化粧品もあれこれ試すが、はずれると痒いし痛いしで、本当に嫌気がさした。皮膚科で処方された保湿クリームだけで半年以上過ごしたが、資生堂の回し者のようであるが、dプログラムというシリーズを試してみると予想外によかった。
そうやって3年ぐらいかけて、なんとか肌の状態は落ち着き、旅行で宿の洗髪料を使ったぐらいでは問題が起きないようになった。見知らぬメーカーの洗顔料や化粧水は、引き続き警戒している。

40代前半で老化を意識することはつらいことだったが、妊娠出産に対する焦りが消えたことは楽になった部分だ。
30代、私しか両親に孫を産むことができないという点で、妊娠出産しなければならないのではないかと思い詰めたことがあった。
「できるけれどもしていない」から「できなくなる」に移り行く年頃に、私はさんざん迷ったり悩んだり焦ったりして落ち込むこともあったし、じたばたとあがいた。
それが、卵巣の病気になったことで、たぶんできないんだろうなぁと、あきらめをつけることができたのだ。じたばたしても、もう無理なんだ、と。自分の悩みをワークスルーする前に、体のほうが答えを用意してくれたようなもので、本当に楽になった。
初発と再発の間に、たまたまプロポーズしてくれた人もいたが、どうしても子どもがほしいという人で、私の病気への理解の無さに無理だと思った。
再発の直前からつきあい始めた現在のパートナーは、子どもが欲しくない人だった。産む産まないの問題から離れて、私はようやく個と個として、関係を育めるようになったのかもしれない。

性交渉の面でも四苦八苦した。
子宮は切り取ったといっても、膣は残されている。性交渉は可能であると医師に言われても、痛みも強く感じ、恐怖心が半端なかった。
イメージが邪魔をするのだ。私の身体の内側にも外側にも傷がある。その両方が開くのではないかという想像が広がって、どうしても怖かった。
身体的には、キシロカインゼリーやリューブゼリーを用いながら、徐々に慣れて、平気になっていった。
心理的には、パートナーとコミュニケーションを十分に取り合うことがなにより大事だったのだと思う。性交渉はコミュニケーションに他ならない。私が安心感を持てるようになるよう、彼の努力がとても大きかった。
もうひとつ、自分の膣が何センチ残っているか、どういう状態であるのか、主治医から教えてもらったことが、知的に処理することに役立った。腹の傷だって、傷そのものは48時間あれば表面はひっつき、ひっついた皮膚は引っ張っても裂けないとも言い聞かされた。
私はだいたい知性化が有効である。あんまり書くのは恥ずかしいので、この部分はこれぐらいで。

6年かけて、私の生活は欠けたものは欠けたままなりに、軌道にのっていったのだ。
幸せだと感じることが多い6年間でもあった。

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