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『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』 は『進撃の巨人』のアンチだった

『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション』(以下『デデデデ』)は、浅野いにおが描いたSF漫画で、2014年から『ビックコミックスピリッツ』で連載されていた。
 
物語は、東京都に巨大な未確認飛行物体が現れ、渋谷区で停滞するところからはじまる。自衛隊は宇宙船の中にいる宇宙人を「侵略者」と称し、戦闘状態となった。
 
未確認飛行物体は「母艦」であったらしく、内部には幾つもの小型宇宙船があった。
 
その後、戦闘は終息したものの、母艦はそのまま東京都上空に留まり続けていた。
 
三年後、女子高生の小山門出と中川鳳蘭(おうらん)は、未確認飛行物体が停滞したままの東京で、日常を送っていた。
 
本作の特徴は、主人公たちをはじめ、キャラクターの表情等は極めてコミカルな、いわゆる漫画的なデザインとなっているのに対し、周囲の背景などは驚くほど、精緻に描かれているという点である。
 
精緻な背景描写で有名なのは大友克洋や谷口ジロー、皆川亮二等があげられるが、キャラクターをコミカルに描いていると言う点は、むしろ水木しげるに近いものがある。
 


 戦わないヒロイン達

 『デデデデ』で、まず語らなければならないのは、本作の主人公である門出と鳳蘭は、戦うキャラクターではないということである。
 
基本的にSF漫画はバトルやアクションがメインであるが、本作は、アクションらしいアクションはなく、たまに行われる自衛隊と侵略者との抗争も、彼女たちの日常の光景の一つとなってしまっている。
 
主人公たちは、超人的なパワーを持っているわけでもないし、宇宙人を倒すための特殊部隊に入隊しているわけでもない。
 
前述したように、本作で語られているのは、SF的要素を含んだ日常のドラマなのである。
 
そのため、主人公たちは、全編通して普通の一般人であり、序盤は完全に侵略者と無縁の普通の高校生であった。
 
ただし、彼女達の友達である栗原キホが、侵略者との抗争に巻き込まれて死んでしまい、門出と鳳蘭達の日常は徐々にきな臭いものとなっていく。
 
彼女たちの日常は、歪な形になりながら、その日を過ごしていくことになる。
 

SF的日常ドラマ

作者によると、本作は、元々『ドラえもん』のような作品をイメージしていたとのことである。
 
実際、『デデデデ』に出てくる漫画『イソベやん』は明らかに『ドラえもん』をイメージした作品である。
 
もう少し正確に言えば、本作に近いのは、藤子F不二雄が良く描いていた、SF短編もののほうが近いと思われる。
 
問題解決をするヒーローなどが登場せず、日常の中にSF要素を入れて、物語を語る手法は、藤子F不二雄が読み切り作品でよくやっていた手法である。
 
また、藤子F不二雄の短編ものの中には、『いけにえ』という本作同様、巨大な宇宙船が街の中に現れ、そのまま空中に停止したままの状態となり、風景の一部となってしまうという漫画作品がある。
 
物語は、門出と鳳蘭を中心にした群像劇で、本作で興味深いのは、徹底として、未確認飛行物体というSF的な存在と共存している日常を描いているという点である。
 
また、ハリウッド映画の『第9地区』も本作と類似点が多い。『第9地区』は本作同様、南アフリカの都市、ヨハネスブルクの空中に宇宙船が現れ、宇宙船やその中にいたエイリアンを巡って、人々が右往左往する物語である。
 
こちらはハリウッドらしく、アクション性が高いが、宇宙人が地球に紛れ込んで生活している点や、宇宙人を何かに利用している政府の陰謀劇などに共通点がある。
 

生活感ある風景

本作の冒頭は、主人公の一人である小山門出が朝目覚めるところからはじまる。彼女の登場シーンを見てみると、驚くほど生活感を丁寧に描写しているのが目につく。
 
ベッドの上には目覚ましのためのスマホがあり、机の上には散々やりこんだと思われるゲーム機があり、床は配線と脱ぎ散らかした服でゴチャついている。
 
キッチンには台所用品が数多く置かれ、洗面所にある籠には洗濯物が入っている。
 
まさに、どこにでもある世俗的な日本の家庭そのものである。
 
門出はその後、中川鳳蘭と共に学校に登校し、普通に授業を受けている。

しかし、空の上には巨大な母艦があり、物語が主人公たちの日常を丹念に表現すればするほど、母艦の異様さが際立っている。
 
本作がこれほど生活感を描写しているのは、藤子・F・不二雄が描くようなSF的な要素取り入れた日常ドラマであるためであるからである。そのため、まず、語られているのは主人公たちの生活環境なのだ。
 

歪なる日常


 門出と鳳蘭、そしてこの漫画の登場人物たちは、空に宇宙船が浮かんでいるという歪な日常の中で生きている。
 
しかし、元々、日常というのは歪なもの、もしくは厄介なものを抱えているものではないだろうか?
 
例えば門出の母は、神経質というより、ヒステリックで不安に弱い一面があり、娘や周囲を振り回している。

母艦が現れてから、A線と呼ばれるものを異常に気にして、門出の母はいつもゴーグルとマスクを着けて生活をしている。
 
A線とは、母艦が現れた際、米国が撃ち込んだ爆弾から出てくる特殊な放射線であり、作中でなんなのか、はっきりとしたことは明言されていないが、門出の母はそのためにさらに不安を募らせているようだ。
 
おまけに、母艦が襲来した8・31の際、夫を無くしてしまったことからも、余計に不安を募らせているようである。
 
娘に愛情が無いわけではないが、それでも不安に駆られて、娘を振り回す様は問題のある母親として映ってしまう。
 
鳳蘭に至っては、自身が電波的な発言ばかりして、周囲を振り回しており、兄のひろしは、アフィリエイトで荒稼ぎをしているものの、ニートとなって父親を悲しませている。

こうした問題は、現実の世界でも見受けられる問題であり、『デデデデ』の世界は、侵略者がいなくても、基本問題だらけであることがわかる。

『進撃の巨人』との比較

 本作がいかに特異な作品なのかは、『進撃の巨人』と比べてみればよくわかる。
 
『進撃の巨人』は、周囲が高さ50mある巨大な壁に覆われた世界であり、壁は人間を捕食する恐ろしい怪物「巨人」を防ぐためにあった。そこへ、ある日、壁を上回るほどの巨大な体躯をした巨人が現れ、壁を壊してしまう。
 
今まで守られていたものが、全て幻想であり、欺瞞に満ちた日常を破壊し、主人公は外から来た脅威と戦いに赴くと言う物語である。
 
一方、『デデデデ』で、脅威と呼ぶべきものは、都市の中央に鎮座している母艦だけであり、それもただおかしなものが宙に浮いているだけで、いかなる脅威なのかまるでわからない。
 
中にいる侵略者も、脅威どころか人類よりはるかに小柄で、弱い存在であることがわかる。
 
敵対しているのが、巨人と小人であるということも、正反対である点の一つであるが、敵の正体が何なのかわからないと言う点は共通している。
 
そして、『進撃の巨人』が欺瞞に満ちた日常を破壊する話であるのに対し、『デデデデ』は、おかしな日常の中で生き続けるという話である。
 
 

小比類巻は誰の心の中にもいる

『デッドデッドデーモンズ』では、小比類巻というキャラクターが登場する。
 
彼は高校時代、門出やおんたんの友達である栗原キホの恋人であったが、前述したように彼女は自衛隊と侵略者との抗争に巻き込まれて、死んでしまうことになる。
 
高校時代の彼は、どちらかと言うと、大人しい感じの少年であったが、同時に不安の強い性格でもあり、侵略者がはびこる今の世の中に酷く怯えていた。
 
そのために、恋人のキホさえもないがしろに扱ってしまい、二人は破局してしまうが、その直後にキホは死んでしまう。
 
この時、小比類巻は侵略者に対する恐れから、憎悪に変わり、復讐の鬼となってしまう。
 
ここだけ聞けば、小比類巻はSFやファンタジーに登場しそうなヒーローのように思えるが、彼の行っている侵略者狩りは、どうみても常軌を逸した行動にか見えない。
 
おまけに侵略者たちは、小柄でおせじにも強いとは言えないので、彼らが哀れに思えてくる。
 
ヒーローと言うのは、見方を変えると、破壊者そのものなのだと言うことを語っているように見える。
 
そして、そうしたキャラクターを求めているのは、我々一般の人なのである。前述したように、多くの人は日常を破壊してくれる存在を願っているからだ。
 
その一方で、自身の安全を願っている一面もあり、大ぴらに破壊を行うことができない。破壊は社会的にも法的にもリスクが伴う。

だから、「悪」と言う存在をみつけて、彼らをリンチすることを楽しんでいるのだ。

小比類巻は、まさにそういうキャラクターであり、『デデデデ』における隠されたテーマの一つを象徴したキャラクターである。
 
実際、読者の中には、門出や鳳蘭が活躍しないことに業を煮やしている人も多い。
 
小比類巻は、多くの人が求めているキャラクターであり、そして誰の心の中にもいる存在である。
 

破壊が何も生まないのは何故か?

 『デデデデ』は『進撃の巨人』の正反対の物語をしているが、物語の形態としては、『進撃の巨人』のほうが大正義であり、空前のヒットをかましたことからもそのことが伺える。
 
つまり、物語と言うのは日常を壊してくれるものでなければならないのだ。

多くの人は、社会に不満を抱え、日常を破壊してくれることを望んでいる。あの3.11やコロナ渦でも、非日常感を楽しんでいた者がちらほらと見受けられた。

アクションやバトルがメインとなる漫画は、日常の疑似破壊行為でもあったのだ。
 
では『進撃の巨人』の正反対の方向に向かっている本作は、誤った物語なのか?いいやそうではないと筆者は答える。
 
それは、皮肉にも『進撃の巨人』がそのことを物語っている。

『進撃の巨人』が終盤近くになると、主人公のエレン・イエーガーは悪人的なポジションとなり、巨人を使って世界を破壊しようと企むようになり、それを、周囲の人間が止めるような物語になってきている。

なぜ、こんな展開になってしまったのか?それは主人公たちが、世界から隔離された存在であったからである。

そのため、エレンが悪人となり、自分を仲間達に倒させることで、彼らを英雄にさせて、世界に受け入れさせようとしていたのだ。

要するに、いくら世界が敵と言っても、いつまでも破壊や戦いを続けることはできないのだ。そして、ヒーローが世界を相手に戦い続ければ、ヒーローはただの破壊者となるしかない。

だから、『進撃の巨人』を締めくくるためには、破壊者となったヒーローを倒すことでしかなかったのだ。
 
なぜなら、日常を破壊するというのは、単なる現実逃避でしかないからである。
 
小比類巻とエレンは、復讐鬼という点で共通している。そのうえ、終盤近くでは、多くの人を先導して、テロ集団を作り上げている。
 
ここまで彼らが信奉されているのは、誰もが彼らのような「ヒーロー」を求めていることの証なのだ。つまり、多くの人は破壊者を求めているのだ。
 
『デデデデ』はそれを拒否して、別のヒーローを出してくる。それが大葉というキャラクターである。
 
大葉の正体は、人間の体に移植された侵略者であり、彼は地球人と侵略者の境界にいるような存在だ。
 
彼は少年のように純朴で、門出や鳳蘭達とすぐに仲良くなり、終盤では、彼らのために母艦をなんとかしようと奮闘する。
 
元々、大葉は、人間の体に異色する前は、子どもだった(名前は乗っ取った少年の方)。『鉄腕アトム』や『ドラゴンボール』の初期の孫悟空のように、日本は無垢な子どもがヒーローとなる場合が多い。
 
ただし、大葉は戦いをするのではなく、異常をきたして、暴走した母艦を止めようとするのだ。門出や鳳蘭達が過ごす「日常」を守るために。
 
本当のヒーローとは、日常を守る存在である。そして、それができるのは破壊者などではない。

他者のために動こうとする無垢な心を持った奉仕者なのである。
  

日常から逃げるな


 本作が語っているのは、日常から逃げるなということである。
 
登場人物の一人であるマコトが、鳳蘭の秘密を知った際、
 
 「悪いと思っているのなら、こっちの世界で責任をとるのがスジってもんなんじゃねーの」
 
と言っているように、日常から逃げても問題は解決しない。

そして日常から逃げるということは、単に引きこもる事を言っているのではない。前述した通り日常を破壊することでもある。

映画版のラストは、原作とは違うラストになっているが、これこそ浅野いにおが伝えたかったラストではないかと思う。

問題解決の方法を破壊に頼るな。たとえ歪な形になっていようとも、日常から逃げるなと。
 
100%問題を解決できるスーパーヒーローは存在しない。日常は常に問題を抱えているものなのだ。その中でできることをしながら、少しずつ問題を解決していくしかない。
 
それが、日常を生きるということなのだ。

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