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【掌編小説】帰りを待ちながら

 彼女は夜の8時までには家に行くと言った。僕はその言葉を信じることにした。グラスに注いだビールは一口飲んだまま置いてあって、泡が消えた状態で残っている。
 ベランダに出て夜の風に当たる。昼間は暑いくらいの気温になって来たが、まだ5月の夜は涼しい。ワイシャツでは肌寒いくらいだ。そういえば帰宅してから着替えもしてなかった。何をしてたんだか。冷蔵庫の缶ビールを取り出してグラスに注ぎ、最初の泡とビールを一口飲んだ。それから窓の外の夜景を眺めて、ぼんやり座っていた。ついさっきまでまだ夕暮れの仄かな灯りがあったが、今や室内は外の街灯の光でぼんやりとテーブルが白く見えている。

 昨日の晩、彼女にプロポーズした。彼女は僕に抱きついて「本当に?」と言ってから目に涙を浮かべて「嬉しい」と呟いた。それから、ずっと腕の中で泣いていた。「そんなに嬉しい?」と言うと、彼女の小さな肩は小刻みに震えてから、「ごめん」「ごめんなさい」「私は本当に、もう」と、いよいよ立っていられない程に泣き出して床に座り込んでしまった。
「どうしたの?何かあったの?」と問いかけても、しばらくは泣いたままで返事はなかったから、もう聞くのはやめて僕も座って彼女の肩をさすっていた。
 それから全く予想していないことを聞かされた。他にお付き合いしている人がいるの、と。「ごめんなさい。私は本当にひどい女です。あなたの顔を見れない」そう言って泣くので、「それはいつから?その人が一番なのかな?」という間の抜けた質問をしてしまった。
彼女はようやく泣き止むと、しばらくは椅子に座ってぼんやり夜景を眺めていた。ちょうど今の僕のように。
 もう一度だけ聞いてみる。
「僕とその人のどちらが良いかな」
彼女の顔がまたクシャっと歪み、それでももう涙は堪えて、でも堪えきれなかった分は少し流れて、そして答えた。
「あなたにプロポーズされるまで、どちらが良いなんて、考えてなかった。でもあなたにとても大切に思ってもらっていたのに、私は罪悪感すら持たずに裏切ってしまった。自分の軽率さが情けない。でも、何より本当にごめんなさい。あなたにとって大切なプロポーズが、こんなことになってしまって」
 僕にはもうよくわからなかった。腹は立たなかった。自分の後ろから他人事のように成り行きを見ている感じがした。
「それで、今から、これからどうしたいの?」もう一度、問いかけた。
「それは、でも、あなたは」そう言って黙ってしまう。それはまぁそうかもしれない。自分には選択権はないと言いたいのだろう。
「もう出て行ってくれ、ニ度と顔も見たくない」僕が呟くと彼女は咄嗟に顔を上げて、僕の眼をしっかりと見つめる。その言葉の真意を測るように。
「なんて、僕が言ったら、出て行っちゃうの?」
 彼女は僕の右手を両手で掴むと首を左右に振って、ただ「いや、いや」と子供のように否定する。それから彼女は言った。
「私はあなたといたいと思ってる。でもさっき言ったのが本当のところで、今までのあなたへの気持ちは真剣ではなかったかもしれない。自分でもバカだと思うけど、失いかけて初めて怖くなった」
「それはもう一人の人より先にプロポーズしたからなのかな?それとも何か僕に良い点があるのかな?」答えられないだろうなと思いながら聞いてしまう。彼女はやはり僕に試されていると思っているのか、答えを慎重に考えている。
僕は待てなかった。
「もういいや、こうしよう。別れよう」
 彼女は目を見開き予想だにしなかったことが起こったとでもいうような絶望の顔を見せた。
「一回、別れて、君が一緒にいたい人を選んだらいいよ。僕は裏切られていたとか何とかは、今まで知らなかったわけだし、どうでもいいよ。別れて、君が二股かけずに僕と真剣に付き合ってくれるのか、もしくは僕の前からはいなくなってしまうのか、いずれにせよ仕切り直して関係をクリアにしよう」
 我ながら何を言ってるんだろうと思ったが、それが最良だと感じていた。
「だから、出て行って。僕は二股かけてる女なんて知らないんだ」彼女に宣告すると、少しだけ口ごもって何かを言おうとしたけど、そのまま弱々しく立ち上がり、深々と頭を下げて、「ごめんなさい」と言って彼女は出て行った。

 翌日、彼女からメールが来たのは早めのランチを終えて職場に戻った時だった。「今日、もう一人の人にきちんとお別れを言って来ます。今更ですがその後会いたいです。20時までには行きます。会えないかもしれないないけど行って、3回だけチャイムを鳴らします」
 昨日の今日で決断早いなあと思った。段々許せない気分にもなっていたので、「あなたのことはよく知りません、とりあえず20時って遅くないですか?」と意地の悪い返信をして、あとは放って置いた。彼女からの返信はなかった。
 いま時計は19時10分を指している。チャイムが鳴った。2回目のチャイムの後に玄関のドアを開けるともう泣いている彼女が立っていて、中に入れると「ごめんなさい」と言った。
「どうも初めましてって言うのは変だね。家に上げといて」そう言って笑うと、「うん、変だね」と彼女も笑う。
「この裏切り女」と言うと、彼女は僕の胸に飛び込んで来て「もう2度としません」と言った。彼女が果たして別れて来たんだか、そもそもそんな男がいたのか、本当のところ今も何考えてるのかわからないけど、とりあえず今はこのままで。

(了)

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