もがき

引っ越してから半年ぐらいテレビが無かったので9月にヤマダ電機でテレビを買った。半年間テレビが無かったのは普段ほぼテレビを観る習慣がないからだ。自分で観るのといえば映像の世紀バタフライエフェクトというNHKの番組だけで、これは受信料さえ払っていればPCのサイトでも見られる。そのため、半年間テレビを持っていないのに受信契約だけは律儀に結んでいるという、テレビは持っているが何がなんでも受信料を払わないそこら辺の大学生の逆みたいなことをしていた。

そのテレビを購入してから最近まで一度もつけていなかった。ケーブルを繋げる等の段取りがシンプルに面倒臭かったからだ。その間テレビは面倒臭さをそのまま体現したかのように、32インチの置物としてリビングに転がっていた。


テレビに限った話ではなく、最近は生活が一つの型をもって変に安定してきている感覚がある。消化試合のような雰囲気だ。

毎日といえば同じ時間の電車に乗って会社に行き、同じくらいの電車で帰る。御堂筋線は人の尊厳が押し潰されるぐらい混んでいるときがあり、すぐイヤホンをして外界に蓋をする。Apple Musicは俺の趣味を完璧に把握したプレイリストを作って寄越すので、大学の時に聴いていた曲ばかり繰り返し聴いてしまう。

毎月決まった額の給料が振り込まれて、仕事も慣れてきて特段不自由なくやっている。積立NISAも始めた。週1でジョギングもしてすっかり健康である。
なのに以前よりも新鮮さが生活に足りていない。現状の自分の取る行動のパターンに限界を感じている。

小説にしても買って満足して積読にしてしまい、映画にしても前半で見るのを諦めてしまう。YouTubeやツイッターのサジェストに身を浸して触り心地の良い情報を点滴のように与えられる。そうやって毎日がオートマティックに推移していく。
もしや24以降の俺の人生は、これまで得た俺を構成するものの慣性で進むだけになるのではないかとふと思った。



おそらく今、自分自身の心地いいライフスタイルをだいぶ理解してきたことで、世界と自分の間に均衡が保たれてしまっているのだ。
例えば就活をやっていた時なんかは世界から自己に絶えずストレスがあり、そこに反発のエネルギーがあった。その時は安定した暮らしと収入があればいいと思っていたけど、どうやらそれだけではないらしい。社会人という長いベルトコンベアに乗ってみると、この消化試合のような感覚は安定と一緒について回るものだと知った。


どうせ生きるなら太く短くなので、20代半ばで時間と金を余して腐らせてしまうような生き方はしたくない。
自ら世界にもっと干渉して行かないといけない。世界にはまだ俺の知らない音楽も文章も映画も知識も風景も無限に存在しているはずだ。
変に達観しない。
とりあえずテレビをつけました。



知らぬ間に築いてた 自分らしさの檻の中で もがいてるなら(ミスチル 名もなき詩 サビ)
というやつですね。20代はもがきます。


よろしゅうおおきに