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美濃路〈死者と生者の混じる道〉

6月の初めての土曜日。美濃路を歩いた。
清須宿から名古屋宿へ向かう道。

名鉄須ケ口の駅から美濃路に入る。
須ケ口とは、むかし、清須の城の城郭の入り口だったことからつけられた地名。

1560年6月12日、桶狭間合戦で、織田信長は今川義元に勝利した。
「信長公記」によれば、討ち取った今川兵の首は三千。今川義元の首は、塩漬けにして丁重に駿河に送り返したが、兵たちの首は、この地に塚を築いて供養したという。

人が行き交う街道の辻󠄀に。
名だたる武士の首は、名札をつけられ、化粧を施され、首置き台に釘で刺されて、戦果を誇示するために、さらされたのだろうか。
いまは民家が建ち並び、『今川塚』の石碑も近くの寺院の境内に移され、塚をしのばせるものは、何もない。

胴は戦場に、心は駿河に。
さらされた将兵の首たちは、街道を行きかう人たちを見てうらやみ、転がってでもこの道を東に向かいたいと、思ったことだろう。

新川にかかる橋を渡り、さらに東へ行くと、瑞正寺という寺がある。
ここが、今日の目的地。

江戸時代、この辺りに尾張藩の処刑場があった。刑死した罪びとたちの菩提を弔う宝塔が、この寺にあるときいていた。

境内に足を踏み入れると、宝塔は、すぐに目に入った。説明を書いた看板も立てられている。2名の個人の有志が私財を投げ打って建てたものだという。処刑場跡の石碑もあった。

火あぶり、鋸挽き、斬首獄門……。
縄で縛られた罪びとたちは、美濃路を歩いて処刑場まで連れてこられ、みせしめに残虐に殺された。

高さ4.5メートル。日本一高い宝塔だという。
青空を背景にそびえる宝塔をながめていると、風に乗って祭り囃子が聞こえてきた。
きょうは、この界隈の天王祭なのだ。

寺を出て、さらに東へ行くと車両通行止めの三角コーンが並べられていた。
ガードマンが立ち、人がコーンの向こうに吸い込まれて行く。そこから先の美濃路は、祭りの会場になっていた。

道の両側に屋台が並んでいる。
イカやトウモロコシや串団子を焼く煙がたちこめ、おいしそうな匂いが満ち満ちている。
子どもたちや家族連れが道にあふれている。
山車が出る。山車を曳く男たちの雄叫びが響く。
笛と鼓の演奏にのって、からくり人形の演技がはじまる。

天王祭は御霊信仰とも結びついているという。疫病も天災も、非業の死を遂げた御霊のたたりと、人々は恐れた。

この祭りの雑踏には、450年前の今川兵の霊も、300年前の罪びとの霊も、混じっているにちがいない。
美濃路は、死者も生者も通う道。

帰りは、普通電車しか止まらない駅で電車を待った。
ホームのベンチに腰掛けていると、特急電車が通過して行く。
急行電車を見送る。
やっと来た普通電車は、行く先がちがった。
わたしは、ここで何分待てばいいのだろう。





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