「愛されている」こと。
最近、上手く泣けない日々が少し続いた。
今日は月曜日だけど休み。
休みだから好きなことをしよう、枠をとっぱらっちまおう、という気持ちで
いつもなら朝か夜にしか入浴しないけど
夕方、というには早い15時から、
好みの熱めの風呂を沸かして、身を浸した。
43度。
「昨日は礼拝で泣いたな」
「ふと出てしまった涙って、
いつが最後だったろうか」
そんなことを考えていた。
「私は幸せになっていい存在なんだ」
最近ようやく自分自身に対して言えるようになった言葉を、
もう一度、反芻して言い聞かせる。
昨日泣いたのは、確か
礼拝中に、奏楽の奉仕中に、
楽器を鳴らしている途中に
「こんなダメダメな私を神様が愛して使おうとしてくれている、ここに立てているのは私の力なんか微塵もない、全て神様の一方的な恵みでしかない」
ということに突然目が開かれ、
突然涙が出てきたのだったなぁ。
と思い返す。
思い返していると、
神様ありがとう、と
ありきたりだけど
最大級の感謝の言葉が心の中に浮かんだ。
熱めのお湯に浸かるのが好きなのは
冷え性の体をじんわりあたためてくれるから、
あたたかさは、安らぎをもたらしてくれるから。
そろそろ、"あたたかい"から"熱い"に
変わりそうだなぁ、と感じた頃に
神様から語られた。
「君は今
"生きづらい"と思っているかもしれない
素直すぎて、実直すぎて、
好きなものには一直線だから、
他人とぶつかってしまうことが
あるかもしれない
だけど、それは僕がそう作ったから
君のせいではないよ
社会に染まれば、
生きづらくなるかもしれない
僕と一緒にいれば
生きづらくないよ
だって、君を作った僕が
いちばん君のことをよく知っていて
パートナーよりも、父や母よりも、牧師先生よりも、他の誰よりも、君のことを愛していて
変わらずに永遠に愛し続けるし、
絶対に離さないし
君には
笑っていて欲しいから
やりたいことをやってみたらいいよ
我慢せず、悲観せず、卑下せずに
楽しんで生きてみよう
一昨日、君のパートナーを通して、
僕はそう君に伝えたね
君がどこにいても、僕は一緒にいるよ
これからは
少し街からは離れるけど、
新しく車を用意しているだろう
(数年後には
街から20〜30分ほど離れた
義実家で暮らす予定であり、
最近免許を取得して
車を買う予定のなかった私に
義祖母が、免許取得のお祝いとして
急に買ってくださることになった)
街から離れることで、
「地の利がなくなる」なんて考えないで
そんな小さな枠に、囚われないで
君は
そんな小さなところに収まる人として
作っていない
もっと大きくなる人なんだ
わからなくて不安なら
全部委ねてみて
どこにでも一緒に行く
必ずなんとかするから
大丈夫だよ
愛しているよ
一緒に生きよう」
ボロボロと流れる涙。
ここ数日は睡眠時間をとっても
お腹のつかえと背中の張りが取れず
あまり寝付けていなかった
(し、ご飯もろくに食べられていなかった)
けれど
語られて
涙を流しながらそれを受け取った時
お腹の力がフッと抜け、
数日ぶりに、体がリラックスモードに入った。
ああ、大丈夫だ。
生きてていいんだ。
幸せになっていいんだ。
本当に愛されているんだ。
もう絶対に見放されないんだ。
枠にハマろうと頑張らなくていいんだ。
ほっとした。
君は愛されるために生まれた、という
曲があったなぁ、と思い出した。
「愛されている」こと。
その本当の意味を理解するときに
人は、自分を愛することができるんだろうなぁ。
自らを本当の意味で愛していこうと思う。
神様がわたしを愛してくれているように。
こんな私をサポートしてくださるなら、泣いて喜びます。ぜひ一緒にお茶でもどうですか。