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宿災備忘録-発:第2章8話

美影は香織の部屋で、ひとりテレビと向き合っている。普段、深夜番組は見ない。しかし今は、降り出した雨の音を意識しないよう、感覚を他に向けておきたかった。
 
香織の住まいは、湖野の中心部にある商店街にある美容室の2階。元々は、香織の伯母が暮らしていた場所。
 
コンパクトで使いやすそうなキッチン。テーブルの上には、香織が灯してくれたアロマキャンドル。キッチンと間続きのリビングは通りに面していて、今はカーテンがひかれ、外は見えない。家具の配置は機能的で、無駄と感じる箇所は見当たらない。掃除も行き届いている。しかし、寒々しいほど殺風景ではない。どこか、あたたかみのある空間。住んでいる人間の気配が染みついているのかもしれない。
 
美影が香織と出会ったのは、小学1年の夏休み。髪を切りに美容室に訪れた時のこと。伯母を訪ねてやってきた香織は、高校2年生だった。明るい茶色の髪、肌の露出が多い服装。顔は明らかに化粧をしていた。湖野の高校生とは違う風貌に驚いたことを、美影は今でも覚えている。
 
香織は、床を掃いたり、順番を待つ客にお茶を出したりと、店の手伝いをしていた。美影には、お茶とお菓子を渡してくれた。お土産で持ってきたの、と言って、バナナの形の洋菓子をくれた。そして、
 
 
『綺麗な髪……いいなぁ、私もそういう地毛が良かった』
 
 
香織は美影の頭を撫でた。その頃はまだ、美影も他の子ども同様、小さかった。その後、香織は毎年夏休みに湖野にやってきた。美影は香織と過ごす時間が楽しかった。無意識に【他所の人】を求めていたのかもしれない。否、単純に、香織が好きだったのだ。
 
美影が中学生になった年、香織の伯母は体調を崩した。東京で美容師をしていた香織は、湖野に移住し、病に倒れた伯母に代わって店に立った。それからずっと、美影は香織に髪を切ってもらっていた。湖野を出る前日にも、レトロなフォルムの鏡に2人で映っていた。
 
 
『いつでも帰っておいで。私はここで待ってるから』
 
 
そのあたたかい言葉をしまい込んだまま、過ぎた月日は、4年4ヶ月。湖野に帰らなかったのは、祖母の遺言によるものだけではない。美影自身、帰ろうと思わなかった。香織には会いたいが、湖野に帰る気にならなかった。この町が嫌いなわけではないが、足を向ける気持ちにならなかった。
 
「初めての帰省が、こんなカタチ……」
 
美影は、主人不在のリビングで膝を抱えた。テレビから流れ出るのは、深夜に似合わない賑やかさ。右手をリモコンに伸ばす。プラスチックの感触を味わう寸前、手は重力に従う。抗えない疲労感。思考回路は迷走状態。
 
 
――またこの感じ……何回目?
 
 
今日一日が、現実だったのか、否か。久遠達と出会ってから今まで、何度この感覚に陥ったのだろう。そして、どうやってこの感覚から抜け出したのか、その都度わからなくなる。
 
座椅子にもたれ、足を放り出し、美影は帰りがけに買ったペットボトルを瞼にあてた。明日のことを考えて、目の腫れは解消しておきたい。腫れの理由は簡単。涙を流したから。それも、半端な量ではない。
 
鷹丸から受け取った真実は、美影の予想をはるかに超えていた。否、予想など始めから立てられなかった。ただ、何を言われても受け入れよう、信じようと覚悟を決めていた。しかし、その覚悟さえも押し潰され、結果、泣くことしかできなかった。
 
 
『これが真実だとしてもアンタはアンタだ。山護美影以外の何者でもねぇんだよ』
 
 
頭の中で、鷹丸の言葉がループしている。それを止め、謎を時系列に並べ、整理したい。しかし声は止まらない。その言葉が救いとなっているから。その言葉を、香織にも、中森にも、言って欲しいから。勿論、石寄にも。
 
「私は……どこからきたんだろうね?」
 
数秒黙って、失笑。続いて零れる小さな笑い声。それは間もなく嗚咽に変わった。両手で覆った顔が熱い。頬を伝う涙は、更に熱い。
 
 
――香織さんに聞こえてしまう
  香織さんに知られてしまう
 
 
泣き声が大きく流れ出す前に、美影は急いで鼻をかみ、顔面の水分を拭い去った。きつく口元を結び、飛び出そうとする嗚咽を押さえ込む。
 
荒くなった呼吸を落ち着かせ、美影はペットボトルの中身を喉に流し込んだ。香織が入浴を済ませ、リビングに顔を出す前に、平常時の自分に戻りたい。
 
 
――大丈夫、大丈夫、大丈夫
 
 
「大丈夫……なにが、あっても、私は、私。私は、私、なんだから」
 
荒い呼吸の中、小さな声で自分に言い聞かせる。右手は首から下げた石へ。握り締め、胸を叩き、鼓動を静める。呼吸を整え、ヒリヒリと熱い目を瞬いた後、美影は天井に向かって息を吐いた。その時、
 
「こんばんは」
 
深夜番組の騒々しさに紛れた、穏やかな響き。声の主はキッチンに。
 
「……灯馬」
 
その姿を確認した途端、美影の深部で、なにものかが反応を示した。右手は勝手に、白を求める。
 
 
――違う
  これは私の意思じゃない
 
 
意識して手を下ろす。灯馬は微笑み、美影の前に。
 
「これを」
 
膝を屈めた灯馬。その右手には乳白色の石。見覚えのある、ツルリとした表面。美影はひとつの可能性を描いた上で、それを受け取った。
 
「また、飲み込むの?」
「はい。以前の石は、既に貴方と同化したようです」
「同化? 占爺は、私を守るための石って」
「それが一番わかり易い例えかと……とにかく、今の貴方には必要な物です」
 
受け取った石と灯馬の顔を交互に見ながら、美影は石を口に含んだ。緑茶のボトルを傾け、一気に石を流し込み、大きく息を吐く。
 
「水分があると、意外と簡単」
 
美影は自分のために言葉を放った。笑ってみた。しかしすぐに涙が零れた。拭って、ごめんなさい、と呟き、顔を両手で覆う。
 
「当然のことだと思います。簡単に受け入れられるものではありませんから」
 
灯馬の言葉に、美影は頷くばかり。
 
「今宵はどうか、ゆっくりとお休み下さい。それでは」
「待って……灯馬は、どう思う?」
 
涙を拭いながら、美影は灯馬の顔を見据えた。
 
「……鷹丸さんが話した内容が事実だとしても、貴方は貴方。それが全てです。私達とともにある、大切な存在です」
 
音を止めた灯馬。深い青の瞳は、瞬かない。
 
 
とうま
もっと
こっちに
 
 
美影の深部。再び湧き上がった疼きが美影の手を持ち上げた瞬間、浴室のドアが開く。美影の肩はビクリと反応。浴室の入り口。ロングキャミソールを纏い、頭にタオルを巻きつけた、香織の姿。
 
「お待たせ……ん、どうしたの?」
 
美影は無言で首を振り、視界の端に意識を移す。白い輪郭は、消えていた。
 
「タオルは向こうにあるから、好きなの使ってね」
 
言い終え、香織はキッチンに足を向けた。
 
「お風呂、いただきます」
「はーい。ごゆっくり」
 
俯き加減で動き出し、美影は浴室へ飛び込んで、静かにドアを閉めた。引っ込んだはずの涙が一滴、また一滴。嗚咽が漏れだす前に、美影は急いで服を脱ぎ、シャワーを全開にした。


《第3章へ続く》


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