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宿災備忘録-発:第3章5話①

九十九山。雑木林の只中。雨音が空間を満たしている。鳥も虫も、木々の枝葉も、全てが雨に主役を譲り、息をひそめている。繁茂する緑は、足元に、進む体に触れ続ける。九十九山の奥深くへ向かう道。否、道とよぶには足元の命が多い。今、歩いているものがいるから、道となっているだけ。
 
美影は、ひとり山に入って行く祖母の背中を思い出していた。たったひとりで、こんな場所を歩いていたのだろうか。代々の山護が歩いて回っていた頃は、ここも道とよべるほどに、生き物の足跡を感じられていたのかもしれない。もう何年も、誰も歩いていないから、人の作った道は、淘汰されたのだろう。
 
そんなことを思い、なぜ祖母が、自分を湖野から離したか、その理由を考えた。考えたところで正解は出せない。祖母は正解を持ったまま逝ってしまったから。しかし、久遠達と出会い、宿災という存在を知り、理由はそこにあるのではないか、という推測が生まれていた。
 
 
――ばあちゃんは、宿災を知っていた……?
  私が、そうだってことも……?
 
 
美影は、自分の真実だけではなく、祖母の真実にも、心を向け始めていた。
 
「どうだ、なにか感じるものはあるか?」
 
前を行く久遠。振り返らずに、声だけが美影に届く。美影は首を横に振った。その仕草は見えなかったはずなのに、久遠は、そうか、と零し、進み続けた。
 
美影の前、合羽を纏った背中。傘はなく、黒髪はフードに隠れている。背後には灯馬。振り返って姿を確認したのは、どれほど前だったか。美影は、時間を確認できるものを持っていない。普段から腕時計はしないし、スマートフォンは香織の家。
 
美影は、Tシャツにジーンズ。鷹丸から借りたサイズの合わない合羽。微かに香るタバコの匂いが、現実に存在しているという感覚を、美影に与えていた。
 
履きなれたスニーカーはすでに泥で汚れ、雨を吸い込み、しっとりと足に密着している。しかし、嫌悪感はない。こんなことが過去に何度もあったように思える。
 
 
――そう思うのは、なぜ?
 
 
美影は、自問しながら足を進める。全身を包み込む湿度の高い空気。ポツポツと合羽を叩く雨音。それに混ざる【なにかの音】。扉をノックするような、トントン、トントン、という音。確かに聞こえたと感じ、美影の視線は発生源を求めて空間を走る。
 
 
――まだここじゃない
  あの音がする場所は
  ここじゃない
 
 
予感。自分は、そこを知っている気がする。靄に隠された記憶の向こうに、そこが見える気がする。走らせた視界の端に、なにものかの姿。目の前をかすめて消えた、微小な存在。
 
「これ……零念(れいねん)?」
 
山に入ってすぐ、同じようなものが美影達のそばへ寄ってきた。羽虫のようなそれを、久遠は零念と呼んだ。
 
 
零念とは人間が抱えきれなくなった穢れが零れ落ちたもの
生命体の姿を模して世の中に存在している
お前に寄ってくる羽虫に似たものも零念
零念は普通の人間の目には映らない
次の宿り主を探し彷徨っている
なにものかを宿す宿災は格好の器
 
 
新たに得た情報は、美影の脳を一周し、小さな頷きを生んだ。まさか、そんな、という気持ちはある。しかし、見えてしまえば信じるほかない、と自分を納得させた。
 
雨が降り出したら、お前の記憶を辿りに行く
 
 
その言葉通り、雨が降りだした頃、美影は久遠と灯馬とともに山護の家を出た。目的地は、美影の心が示す場所。それはどこかと尋ねた美影に、久遠は「祠の向こう側」だと答えた。
久遠が美影を見つけたのは、九十九山の奥深くにある、祠のそばなのだという。向こう側、と表現した意味を尋ねたが、行けばわかる、いや、思い出すだろう、と、明言はしなかった。
 
美影は進むほどに、心がぐいぐいと山に引き込まれるような、不思議な高揚感を覚えていた。不安をごまかすための防衛本能なのだろうか。
 
 
――違う。不安じゃない
  嬉しいような、楽しいような、おかしな気持ち
  わくわく、してる……?
  ここを知っている
  この先にあるものを知っている
  この先で待っている人を知っている
 
 
緩やかに、しかし確実に、記憶は鮮明に。足は勝手に進路を決め、抜け落ちた記憶の欠片を拾い集めているという実感を、美影の中に芽生えさせた。
 
 
――ここはどこ?
  大丈夫
  知っている場所だから
 
  目的地は?
  大丈夫
  ちゃんとわかっているから
 
  思い出したの?
  思い出している
  少しずつ
  少しずつ
 
 
自らの記憶との対話で、美影の頭は忙しい。それでも足は確実に進む。そこに辿り着いた時、全ての記憶が蘇る。そう信じて、期待して、美影の心は急いていた。
 
「美影、待って下さい。少し急ぎすぎです」
 
背後からの声に、美影の肩はビクリと反応。足が止まる。
 
「私の存在を、忘れては困りますよ。置いていかないで下さい」
 
振り返った視線の先。灯馬の柔らかな笑み。それを目にした途端、美影の右手が灯馬に伸びた。
 
「ダメっ」
 
思わず口にして、美影は右手を左手で制する。刹那胸の奥が軋んだ。深呼吸をして、両手を下げる。そっと左手を離して、数秒。右手をチョキのカタチに。自分の意思を持って動いたことを確認し、美影は安堵の息を吐いた。
 
「ごめんなさい。まだちゃんとコントロールできないみたい」
「仕方ありません。どちらかの気持ちが強く出るというのは、よくあることです。宿主がコントロールするというより、災厄に安心してもらうのが一番かと」
「安心?」
「ここにいてもいい、一緒に生きていこうという気持ちを、伝えることです」
「私の中にいるものに、私の気持ちを伝える……なんか、すごく難しい気がする」
「そうかもしれませんね」
 
灯馬は穏やかな表情のまま。しかし美影は不安を覚えた。体は自分であるのに、感情を他者に乗っ取られてしまうような恐怖。速まる鼓動。右手は胸元の石に伸びる。しっかりと握って、勝手に動き出さないよう固定。
 
 
――次に灯馬と目を合わせたらどうなる?
  私の体は私のいうことを聞いてくれる?
  それとも
 
 
美影は前方に向き直った。そして、前にある背中に問いを。
 
「どうすれば、私は私でいられるの?」
「今、自分はなにをすべきか、目的を定めるんだ」
「目的を、定める……?」
「自分がすべきことを言葉にして、自分で確かめろ。心に広がる感情が誰のものかわからなくなったら、ここに集中しろ。目に頼らず感じるんだ。ここで」
 
振り返った久遠は、眉間を人差し指でしめした。その仕草を真似て、美影は人差し指を眉間に当てた。そして、両目を閉じる。
 
 
――ここで見る
  目を頼らずにここで
  ここで見る
  ここで感じる
 
 
「私は……記憶を取り戻しに行く。香織さんの家から出て、山護の家で目覚めるまでのこと、全部思い出す……なにが起こったのか、ちゃんと思い出す」
 
口に出し、次第に小さく。最後は心の中に染み渡らせるように。まるで呪文。鼓動は徐々に穏やかに。しかし、全身は熱を帯びていく。わずかに涙腺が疼いた。久遠のアドバイスが嬉しかったのかもしれない。美影は目を開け、灯馬を振り返る。視線がぶつかっても、白を求める感情は湧き上がらない。
 
「大丈夫そうですね」
 
穏やかな灯馬の言葉に頷きを返し、美影は再び足を動かし始めた。
 
しばらく行くと、美影の心臓がドンっと大きく拍を打った。求めている場所は、すぐそこにある。そんな予感。久遠を追い越し、走り出す。
 
急な上り坂を駆け上がり、木立を抜ける。薄暗い山中に現われた、円形の広場。足元には白い玉砂利。円の中心にあるのは、祠。木造で塗りはなく、紋や飾りもない、質素な外観。標準的な日本人の女性なら、かがまずに中に入れるほどの高さがある。
 
広場の入り口で、美影は足を止め、祠と向き合った。
 
「どうして扉が閉じているの……」
「記憶が戻ったんだな?」
 
美影は、いつの間にか横に立った久遠に頷きを返した。


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