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宿災備忘録-発:第3章2話

湖野の中心部から離れた高台に建つ、老人介護施設。鷹丸は、雨が弾ける駐車場を横切り、半ば駆け込むような格好で、間口の広い自動ドアの内側に入った。
 
傘についた雨粒を掃い落し、思わずため息。香織に入り口前まで送ってもらうか、タクシーを使えば良かったと、軽く舌を打つ。革製のブーツはしっとりと雨を吸い、カーゴパンツの裾は色を変えている。靴下は濡れずに済んだ。裾を捲り上げ、ブーツを脱ぐ。殺風景な玄関に、雨音が響いている。
 
用意されている来客用のスリッパは、鷹丸の足に対して縦は短く横は狭い。履き心地の良いサイズではないが、施設の決まりを無視するわけにもいかず、鷹丸は思い切りはみ出した踵を意識しながら、静かな足取りで進む。床の冷たさが伝わり、微かに身震いがした。
 
受付を済ませ、自動販売機でホットコーヒーを2本買った後、3階へ。廊下の一番端、東南に位置する部屋の手前で、鷹丸は足を止めた。スライド式のドアは開け放たれたまま。あえて室内を覗かず、
 
「こんにちは。お邪魔してもよろしいですか?」
「邪魔するつもりできたんだべ」
 
小さいが、力強い声。鷹丸は笑みを浮かべて室内を覗き込んだ。湯飲みを手にした老女が、ソファーに沈むように腰かけている。菊谷トシ。美影の祖母、山護美代の幼馴染み。10年前まで助産師を務め、湖野で産まれる新しい命を取り上げていた。2年前、病により体の自由が利かなくなり、以降、この老人介護施設で暮らしている。
 
「お元気そうで、なによりです」
「元気すぎで退屈だ」
 
ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、老女は目尻に皺を集中させた。
 
鷹丸は、頭を下げて部屋に入り、老女の正面に腰を下ろした。缶コーヒーを1本、トシの前に置く。
 
「あれ、肩、ずぶ濡れだ」
「ああ、このくらい大丈夫。傘が小さかったんだ」
「おめがでっけえんだべ。今日は、香織ちゃんは?」
「坂の下まで送ってもらったんだけど、今日はこないよ。客がいてね。俺の友達」
「夜神楽で一緒だったっつう男だな。アイドルみでえにめんけぇつらしてんだってな」
「ここにいても情報はしっかり入ってくるんだな」
「小せぇ町だしな。ふらぁっと誰がきて、ああだっけこうだっけて、喋ってぐのよ」
 
トシはソファーにもたれた姿勢で、顔を窓に向けた。
 
「ひどぐなってきたな」
「ああ……帰りはホントにずぶ濡れだ」
 
鷹丸の頭の中に、雨の山に消えた2人の姿が映し出された。降り続ける雨は、更に力を増すだろう。どこへ向かったのかもわからない2人を思って、鷹丸の視線は窓に描かれた斜線に釘付けになる。
 
「……美代んどこのわらすさ、なにが起ぎた?」」
 
雨音に重なったトシの響き。鷹丸はコーヒーを数回振って、栓を開けた。数口飲んで、長い息を吐く。
 
「その話を、しにきました。さすがですね」
「雨の中わざわざきたんだ、そんぐれえわがる……隠しごどはなしだ。お互いな」
 
皺枯れた目元から放たれた、鋭い視線。トシからの無言の催促を受け取り、鷹丸は美影に起きた出来事を詳細に伝えた。
 
鷹丸の声が途切れて数秒。再び耳につき始めた雨音に、トシは、深く長いため息を混ぜた。皺が集中した目元。ほんの僅か滲んだ水分。トシの口元が細かく震えだす。その口が音を紡ぐまで、鷹丸は黙して待った。
 
「結局、止められねんだな。血の繋がりっつうのは、そういうもんなんだな……美代は、美影を、返したぐねがった……捕られたぐねがった」
 
絞り出した声。震えは嗚咽に変わった。痩せ細った手で顔面を覆ったトシに、かける言葉を見つけられず、鷹丸は静かに立ち上がった。
 
「タバコ、吸ってきます」
 
中身が残ったコーヒーの缶を握り、余韻も残さず廊下へ。開きっぱなしだったドアを閉じる。
 
タバコを吸う、と言ったものの、施設内に喫煙所はない。鷹丸は、香織から借りた折り畳み傘を開かず、駐車場の隅へ。枝葉の伸びた木の下に避難。タバコに火をつけ、深く吸い込み、煙と一緒にため息を吐く。
 
「美影を返したぐねがった、か……ったく、やっとホントのこと話しやがった。互いに隠し事はなし、か……隠し続けるのも、しんどいよなぁ」
 
鷹丸が初めてトシのもとを訪れたのは、湖野に滞在して、およそ1ヵ月が過ぎた頃。梅雨の真っ最中だった。ツクモ関係者を通じ、山護美代と親交のあった人物を紹介してもらった。それが、トシだった。面会に訪れた鷹丸を目にしたトシは、人払いをし、思いも寄らない言葉を鷹丸にぶつけた。
 
 
『おめえは山がらきたのが? あのわらすは、もういねぇ』
 
 
その言葉は、鷹丸に2つの可能性を思い描かせた。ひとつ目。菊谷トシの中には、現実世界と、湖野の民話を仕切る線がない。簡単に言えば、認知能力が低下している。2つ目。これは特殊事項、久遠の案件。鷹丸は、その場でいずれかを判断せず、自己紹介と当たり障りのない世間話をし、早々に退室した。
 
数日後。鷹丸は再びトシのもとを訪れ、自分が何を求めて湖野を訪れたのか、包み隠さず話した。それでもトシの口から、美影と石寄についての情報を聞き出すことはできなかった。しかしトシは、鷹丸を邪険に突き放しはしなかった。ただ、のらりくらりと話を誤魔化し、
 
 
『今日はおしまいだ。また今度な』
 
 
と、ベッドに横になってしまう。トシの口から美影という名を聞いたのは、7月の後半。鷹丸とトシ、2人の対面が19回目に達した日の事。
 
その日鷹丸は、警察関係者から入手した遺体写真をトシに見せた。トシは明らかに動揺し、微かな震えを見せた。更に鷹丸は、遺体が持っていた写真の複写を見せた。
 
トシは、山護美代が写った写真をしばらく凝視した後、観念したように、美影の生い立ちを語り始めた。
 
しっかりと噛み締めるような語り口。目は常に鷹丸を捉え、視線を逸らすことを禁じているかのようだった。表情。声。取り巻く気配。それは真剣そのもの。目の前に座る老女は、真実を語っている。鷹丸の中にあった2つの可能性は、ひとつに絞られた。
 
トシの話を元に、鷹丸は【最初の報告書】を作成した。しかし、書き終えて、読み返し、苦笑した。全て真実だとして、誰が信じるだろう。信じるわけがない。普通ではない経験をしてきた自分でさえ、何度も真実か否かを疑ったのだから。
 
「久遠に任せて、さっさと身を引くべきだったか……」
 
タバコはあとひと吸いで灰皿行き。思い切り吸い込んで、苦みを肺の奥まで届ける。
 
何故、自分は調査をやめなかったのか。鷹丸は自問した。
 
この奇妙な物語に、どんな展開が訪れるのか、どんな結末が待ち受けているのか、知りたかった。純粋な好奇心。否、それだけではない。惹かれる者がいたからだ。
 
360度、繋がる山の稜線。青い稲穂がたなびく湖野の夏景色。その真ん中に美影を置いて、ほどよく距離をとる。鮮やかな赤毛は、のびのびと茂る緑に良く映える。すらりとした四肢。混血を思わせる顔立ち。どこか浮世離れした存在感。この人は異空間からの来訪者なのだ、と聞かされたら、そんなことはないだろうと思いつつ、そうであってもおかしくはない、と首を縦に振ってしまうだろう。
 
どことなく孤独感をまとった姿が、久遠にも重なった。放っておけない雰囲気が、更に鷹丸を惹きつける。山護の家で、思いつめる美影の頭を撫でてしまったことを思い出し、鷹丸は天を仰いだ。
 
「……なに考えてんだか。バカか俺は」
 
タバコを携帯灰皿に押し込み、鷹丸は缶コーヒーを飲み干した。自分の素直な感情を意識したせいか、外気温に反比例し、体が熱い。冷たい1本を求めて、自動販売機に向かう。
 
買って、トシの部屋に戻ろうか、それとも帰ろうか。ポケットの小銭を探りながら、鷹丸は自分自身に選択を迫る。
 
「あれぇ、鷹丸君でない?」
 
背中にぶつかった声。他人の気配に気づけなかった自分に、僅かな苛立ちを覚える。それを表に出さないよう気をつけながら、鷹丸はゆっくり振り返った。
 
恰幅の良い中年女性。菊谷トシの親類で、鷹丸をトシに紹介してくれた人物。鷹丸と女の距離は2メートルもない。にもかかわらず、女は右手を大きく振り、存在をアピール。
 
「こんちは」
 
鷹丸は女のもとへ。女は丸い顔に愛嬌たっぷりの笑みを浮かべた。
 
「トシさんの面会?」
「そう」
「香織ちゃんは?」
「今日は、俺の友達の相手してもらってんだ」
「さては夜神楽の男だな。鷹丸君の友達だったのが。アイドルみでえなやつこらしいな。イケメンだって噂だっけ。あーぁ、おらも行げばいがったなぁ。見てがったなぁ」
「それ、トシさんから聞いた?」
「いや、娘がら聞いて、オラがトシさんさ教えだんだ。そういえば、鷹丸君もえらい美人連れでらったって聞いだよぉ。なに? 彼女さん?」
「いやいやいや……頼むから俺の情報は聞き流してよ。この通り」
「誰さも言わねぇって。んで? 彼女さん?」
「言わないけど知りたいは知りたいんだ」
「そりゃそうさぁ、あんた、それがおらの楽しみだものぉ」
 
ねぇ、と同意を求めるように女は、鷹丸の顔を覗き込んだ。鷹丸はつい、笑いを漏らしてしまった。
 
「なにを求められてんのかわかんねぇけど……俺は、もう帰るわ」
「なして? 今きたんでねぇの?」
「もう会ってきたよ」
「そが」
「トシさんによろしく。次は手土産持ってくるって伝えて。ああ、あと、今夜メシ食いに行くよ。じゃ」
 
軽く会釈した鷹丸に、女は再び手を振って去った。
 
「……もう大丈夫、だよな」
 
頭の芯に、トシの嗚咽がこびり付いている。深い皺が刻まれた頬は、もう乾いているだろうか。部屋に辿り着いた女は、トシの様子に驚きはしないだろうか。
 
「悪いな……」
 
トシとの対面を避けた自分に罪悪感を抱きながら、鷹丸は施設をあとにした。雨足の強くなった空の下、雨粒が涙を思い出させる。トシの嗚咽を振り払えないまま、鷹丸は小さな傘をさして、ひとり歩き続けた。


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