Ⅱ.からっぽのお墓-1
鈍色の雲が空を走る。六月の澄んだ光がところどころ遮られ、瑞々しい緑の芝生にこもれびのような濃淡を刻んだ。
レイヴンは黒衣の胸元に真紅の薔薇を抱えて墓地を歩いていた。きれいに刈り込まれた芝生に立木が静かな緑陰を投げかける様は、よく整備された公園のようだ。実際ここは〈煉獄《シェオル》〉の住民にとっては散策の場にもなっている。
潮の香りを含んだ風が涼やかに吹きすぎた。墓地は海を見下ろせる断崖の上にある。以前レイヴンがグリフォンをつれて立ち寄った公園とは方角が違い、ここから〈楽園《エデン》〉は見えない。水平線の彼方まで深い海原が広がっている。
墓標が整然と並ぶ区画を抜け、墓地のいちばん端でレイヴンは足を止めた。この先は崖で、ひとつだけ据えられた小さな白い墓石の向こうに見えるのは青い海だけだ。
大理石の墓標には何も刻まれていない。墓碑銘はおろか、名前さえも。よく磨かれた表面に映る自分の顔を、レイヴンは黙って見つめた。
海から吹き上げる風で、ふわりと薔薇の芳香が広がった。レイヴンは気を取り直したように目を瞬き、墓前にそっと薔薇を置いた。
白い大理石と真紅の薔薇の対比は、まるで青ざめた肌に飛び散る鮮血のようで……。悲しみというよりは疲労に似た、果てしない憂悶が彼の美貌を翳らせる。
ポツッ……、と白い頬に雫が跳ねた。雨雲が空を駆け抜けてゆく。パラパラと雨粒が落ちてきてもレイヴンは墓石を見つめたまま身じろぎもしなかった。光と影が交錯するなかで、黒髪や黒衣に降りかかった水滴が仄昏く輝いた。
「──誰のお墓?」
無邪気な声が背後から聞こえ、レイヴンは憂鬱そうに振り向いた。幼い少女がひとり佇んでいる。黒い礼服姿からして葬儀の参加者だろう。『死』が意味を持つにはまだ幼すぎるのかもしれない。レイヴンは静かに答えた。
「ここはからっぽだよ」
少女は不思議そうに小首を傾げた。
「からっぽ? からっぽ貝のお墓なの?」
「何だい、それ」
「知らない。映画で観たの」
気を削がれて眉をひそめると、遠くから呼び声が聞こえてきた。
「あっ、ママだ。──はーい!」
澄んだ高い声で返事をすると、少女はあっというまに走り去った。レイヴンはほんの一瞬少女の行く先に視線を送り、ふたたび墓標に向き直った。
小雨まじりの風が黒髪をそよがせる。真紅の薔薇の花びらで、雨粒が雲間からの光にきらめいた。どこかで咲いているだろう朝まだきの薔薇に、ぼんやりと想いを馳せる。
『──ウィル、起きて! 薔薇が咲いたわ、今年初めての薔薇よ』
朗らかな、彼女の笑い声。
『朝露がキラキラしてる。なんて綺麗なのかしら……。もう少し咲いたらお庭でお茶を飲みたいわ。それともデーヴィットや他のみんなも呼んでガーデンパーティーを開きましょうか』
澄んだ浅緑の瞳をきらめかせてメドラが問う。
『ねぇ、どう思う?』
レイヴンはうっすらと微笑んだ。
「……ああ、いいね。すごく楽しそうだ。そうしたら、また……歌ってくれるかい……?」
溜息さえ、たゆたう歌声のようで。
メドラ。
「きみの声が……すごく好きなんだよ……」
照れくさそうに、嬉しそうに笑うきみ。
きみさえいれば、何の変哲もない風景さえ光り輝いて見えたのに。
今はもう、何もかもが灰色だ──。
返るはずのない答えを待つかのように、レイヴンはいつまでも墓標の前に佇んでいた。
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