Ⅱ.からっぽのお墓-2

「──チェシャ猫さん、ちょっと店をお願いできますか?」

 グリフォンの声に、客席を片づけていたチェシャ猫が振り返る。

「いいけど……、俺、エスプレッソしか出せねぇぞ?」

 困惑顔でチェシャ猫は眉を下げた。彼は先月からウィンターローズでアルバイトを始めていた。自分の都合優先だからたいして当てにならないが、レイヴンは別段彼の働きに期待しているわけではないらしい。

 店のものを壊さなけりゃいいさ、とのたまう彼に憤慨したアリスが放漫経営だとなじっても彼は鼻で笑っただけだった。

 彼にとってウィンターローズは八割方遊びのようなもの。金を稼ぐ手段ではなく、〈顔なし《フェイスレス》〉=アンドロイドであるグリフォンの『教育』のためと言ってもいい。

「大丈夫だと思います。この時間にやってくるお客さんの注文は、ほとんどマシンだけで対応できますから。使い方は覚えましたよね?」

「ああ、そんなら大丈夫」

 チェシャ猫は覚えがよく、店のエスプレッソマシンを一日で難なく使いこなせるようになった。

「じゃ、お願いします。牛乳を買ってくるだけですから、すぐ戻ります」

「俺、行くぜ?」

「いえ、うっかり忘れたのは僕ですから」

「グリフォンが忘れるなんて珍しいな」

「すみません」

 グリフォンは苦笑してエプロンを外し、上着を引っかけて店を出た。空は晴れているのに小雨が降っている。だが、傘を差すほどではない。グリフォンは近くのスーパーまで走り、手早く買い物を済ませた。

 外に出ると雨はもう上がっていた。雨雲の名残が空を流れてゆく。グリフォンはふと足を止め、澄んだ青空を見上げた。

(レイヴン、濡れなかったかな……?)

 軽い通り雨だったし、気温も高いから心配することはないだろうが、今朝の彼はなんだか様子がおかしかった。ひどくうなされていたし、熱もあった。

(そういえば……、毎年この日は必ずひとりで出かけてる)

 グリフォンが彼に拾われてからずっとだ。行く先も告げずふらりといなくなり、帰宅しても物思いに沈んだまま黙り込んでいる。翌日になればいつもの彼に戻っているが、この一日だけはレイヴンは明らかに『変』なのだった。

 最初のときには行き先を尋ねたが、彼は答えなかった。珍しいことだ。レイヴンはグリフォンの質問にはたいていきちんと答えをくれる。冗談ぽく『秘密』と笑ったり、『言いたくない』とぶっきらぼうに返すことはあっても、黙っていることはない。

 二度目に尋ねたときもやはり彼は答えなかった。レイヴンとの生活で学習を積み重ねたグリフォンは、それ以来訊くのをやめた。人間には『答えたくない』以上に『訊かれたくない』ことがあるようだ。

 問われること自体が、レイヴンにとっては『苦痛』であるらしい。彼に苦痛を与えることはグリフォンにとって真っ先に回避すべき行動だ。

(〈地獄《ゲヘナ》〉に行ったんだろうか……)

 いや、それはなさそうだ。確かにレイヴンは時折ひとりで〈地獄《ゲヘナ》〉へ行くけれど、出かけるときも帰ってきたときも様子はふだんと変わらない。

 思考するうち、グリフォンは落ち着かない『気分』になってきた。今現在レイヴンはグリフォンがシグナルを関知できる距離にはいない。もともと緊急時に姿を視認できない場合を想定して組み込まれているものだから範囲《レンジ》は狭いのだが、彼との『絆』が断ち切られたかのようで心もとなささえ覚えてしまう。

「……早く帰ろう」

 待っていたいから。彼が戻ってきたらすぐに会えるように。いつもと変わらず笑顔で迎えられるように──。

 速めようとした脚がいきなり重くなり、グリフォンは目を瞠った。見下ろすと黒い巻き毛の子供が脚にしがみついていた。

 漆黒ではなく、いくらか茶の混じった黒褐色だ。

(女の子……?)

 レースをあしらった可愛らしい白のワンピースを着ている。背丈はようやくグリフォンの膝に届くほど。面食らっているうちに巻毛が揺れて女の子が顔を上げた。

 鮮やかな空色の瞳がまっすぐに彼を見つめる。年齢は四歳か五歳くらい。たいそう整った顔だちの少女だ。幼くあどけないのに『可愛い』というよりも『美しい』と形容したほうがしっくり来る。年齢には不釣り合いなほどの美貌は精緻に作られたビスクドールを思わせた。

 あるいはレイヴンが作った仮面《マスク》を着けた〈顔なし《フェイスレス》〉のような……?

「──!」

 グリフォンはぎくりとした。

 似ている。

 *彼*に。

 この子は*レイヴンにそっくり*だ……!

 とまどうグリフォンをじっと見つめていた幼女は、花が咲くようにパッと破顔した。一度笑顔になると、それまでの無機物めいた印象はきれいさっぱり洗い流された。そこにいるのは驚くほど可愛らしくはあっても、ひとりの生身の人間だった。

 彼女はにこにこしながらグリフォンの長い脚にぎゅっと抱きつき、小鳥がさえずるような愛らしい声で嬉しそうに叫んだ。

「やっと見つけた──、パパ!」

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