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ミュージカルと少女漫画 - 「ウェストサイド物語」に見る少女漫画的表現

この記事は、舞台および映画「ウェストサイド物語(WEST SIDE STORY)」のネタバレを含みますので、ご注意ください。

わたしがミュージカルを観るようになってかなり経ちます。

最初に観たのは小学生の頃でした。学校からの観劇遠足のような行事で観た劇団四季の「夢から醒めた夢」。ただ、その頃は、ミュージカルという「ジャンル」に興味を持ったというより、シンプルに「お芝居として感動した」という印象の方が近かったかもしれません。

それでも、よく見る漫画やアニメ、映画やドラマとは異なる、独特な世界のようなものに触れて、何か感じるところがあったのでしょう。その後、まだ学生の頃でしたが、衛星放送で舞台中継されていたミュージカル作品を観てからは、何かに取りつかれたように夢中になっていきました。


突然歌い、踊り出す

わたしが大人になってからは頻繁に生舞台を観るようになり、機会があるたび、ミュージカルの素晴らしさについて力説するようになるのですが、やはり少なからず次のような反応がありました。

  • なんで突然歌い出すの?

  • なんで突然踊り出すの?

ミュージカルを観たことがない、あるいはテレビなどで一部分を見ただけの人の印象としては、至極真っ当な感想かもしれません。目の前で俳優が演技をしている舞台という空間を「現実と地続き」だと捉えるなら、とても違和感のある光景にも思えるでしょう。

こうした疑問に対して、わたしは「ミュージカルは少女漫画と似ている」というようなことをよく言っていました。言いはしたものの、これでピンと来て、納得してくれた人は少なかった気もしますが……

(昔の)少女漫画によくある表現

わたしは少女漫画も読みはしますが、その分野の熱心な読者というほどでもなく、特に最近の作品はほとんど読んでいません。この記事における「少女漫画」とは、主に1970~90年代あたりの作品とお考えください。

その頃の少女漫画にはモノローグが多いです。また、主人公が何かを考えたりすると、背景にはどこからともなく大量の花びらが現れたり、ふわふわとした浮遊物が浮かび上がり、瞳にはあふれんばかりの星が輝きます。

言うまでもなく現実には起こり得ないことです。ところが、そのような現実離れした表現でありながら、そこで語られる内容や心情に多くの読者は感情移入していくのです。

その人物の内面描写、あるいは場合によって他者をも巻き込みながら、背景に花びらが散りばめられ、瞳の星々は輝きを増していきます。現在では(というよりも1990年代あたりからは)、そこまで極端な表現は少ないですが、一昔前の少女漫画では比較的スタンダードな表現でした。

「ロミオとジュリエット」の現代版「ウェストサイド物語」

さて、ここでひとつのミュージカルをご紹介しましょう。かつて映画化され、日本でも劇団四季宝塚歌劇団などが上演を繰り返し、近年もスピルバーグ監督の手で再映画化された「ウェストサイド物語」です。(本記事での表記は劇団四季公演のタイトルに準拠します)

ご存知の方も多いと思いますが、この作品はシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」を翻案したものです。

今回の記事内容からは全くの余談となりますが、藤子不二雄ファンにとって「ロミオとジュリエット」といえば、小森麻美さんの作画による「宇宙人レポート サンプルAとB」です。この作品については、藤子Fノートさんの記事がわかりやすく面白いので、ご紹介しておきます。

ウェストサイド物語」では、「ロミオとジュリエット」におけるキャピュレット家をプエルトリコ系アメリカ人による「シャーク団」、モンタギュー家をポーランド系アメリカ人による「ジェット団」という、ふたつの不良グループに置き換え、対立するグループにいるふたりが恋に落ちてしまったことにより始まる悲劇を描いています。

キャピュレット家とモンタギュー家の構成を、そっくりそのままシャーク団とジェット団に置き換えているわけではありません。たとえば「ロミオとジュリエット」で殺されるティボルトはジュリエットの従兄弟ですが、「ウェストサイド物語」で殺されるベルナルドはマリアの兄です。

シャーク団のリーダーがベルナルドで、その妹がマリア、本作のヒロインです。一方、かつてリフという弟分とともにジェット団を作ったものの、現在は真面目に働いており、ジェット団と距離を置こうとしているのが、本作の主人公であるトニーです。

このマリアとトニーは、体育館で行われていたダンスパーティーで出会います。この体育館はふたつのグループにとって中立地帯となっており、実はこのダンスパーティーで、ジェット団がシャーク団へ決闘を申し込む手筈になっていました。トニーはパーティーへの出席を躊躇しますが、副官として来てほしいとリフに頼み込まれ、渋々参加したのでした。

この記事は、ストーリーを紹介することが目的ではありませんので、この程度に留めておきますが、そういう背景があって、主人公のふたりが体育館のダンスパーティーに来ていたということだけ説明しておきます。

「ウェストサイド物語」で描かれた「一目惚れ」の表現

体育館でのダンスパーティーは、一触即発のような雰囲気から始まります。その空気を察知した主催者側が、劇団四季版で「仲良しダンス」と訳されている、円を描いてみんなで踊るダンスを提案するも失敗に終わり、ふたつのグループによる激しいダンスの応酬が繰り広げられることになります。ミュージカル作品として、序盤の大きな見せ場となるダンスシーンです。

このダンスは、イメージ描写ではなく、ダンスパーティーに来て踊っているのですから「現実のシーン」です。ところが、そこに「非現実的なシーン」が見事に重なり、トニーとマリアの出会いを表現していきます。

激しいダンスが行われる中、ふたりの目が合います。お互いの姿を見つめ合い、恋が芽生えた瞬間です。激しい音楽は次第に穏やかになっていき、激しく踊っていた周囲の人々も次第に消えていきます。もちろん実際に消えたのではなく、ふたりの視界に入らなくなったのです。

ふたりの周囲には、男女ペアダンサー数組だけが残り、ふたりの逢瀬を彩るかのように踊りますが、これはもちろん現実のダンサーではなく、イメージシーンです。つまり現実のダンスパーティーからふたりだけの恋の世界へ、シームレスに移行していくという演出です。

ここでのふたりは、それほど激しく踊るわけではなく、フィンガー・スナップ(指鳴らし)を取り入れたステップを少しだけ踊ります。このダンスがとても可愛らしく、そして微笑ましくもあります。

その後のシーンの会話をシナリオ風に紹介しますが、実は劇団四季版の舞台を最後に観たのはかなり前で、台詞はうろ覚えです。そこで1977年盤の劇団四季公演CDから台詞を書き起こしています。大意は同じではあるものの、近年の舞台での台詞とは一致しませんので、ご了承ください。

この1977年盤CDは、なかなかのプレミア価格になっています。トニー役が鹿賀丈史さん、マリア役が久野綾希子さん、ベルナルド役が市村正親さんという、二度と見られない超豪華キャストです。

トニー「人違いしてるんじゃ……ないでしょうね?」
マリア「……いいえ」
トニー「じゃ……前に会ったことがある?」
マリア「……いいえ」
トニー「僕は何か起こりそうな……今までにないことが、きっと起こるに違いないと思ってたんだ。でもそれが……」
マリア「手が……冷たいの……」

トニー、マリアの手に自分の手を重ねる

マリア「あなたの手も……とっても温かいわ」
トニー「君のも……」
マリア「同じ人間なんだもの。当たり前よ」
トニー「まさか僕のことを……からかってるんじゃ、ないだろうね?」
マリア「男の人をからかうなんて……そんなこと、まだ知らないわ。これからは……なおさら……」

ふたりの距離が近づいていき、そっと唇を重ねる……

穏やかだったメロディは、次第にテンポが速くなり、ふたりの世界も徐々に現実のダンスパーティー会場へ戻っていく。マリアの兄、ベルナルドがふたりの様子に気付き、激怒してトニーを突き飛ばす。

ベルナルド「帰れ!アメリカ人!」

台詞だけで、どこまで雰囲気をお伝えできたかわかりません。1961年の映画版でもほぼ同様の演出で描かれているので、機会があれば実際に観て頂きたいと思いますが、このシーン、ものすごく少女漫画だと思いませんか?

この数分間のシーンを書き出すと、このような構造になっています。

現実のダンスパーティー
→一目惚れの恋に落ちる
→周囲の時間が徐々に止まっていく
→完全にふたりの世界
→周囲の時間が徐々に戻っていく
→完全に現実に引き戻される

続くシーンで、ベルナルドによってマリアと引き離されたトニーは、彼女の名前がマリアであることをここで初めて知り、「なんて美しい名前なんだ」と、ひたすらその名を歌い続けることになります。トニーは完全に自分だけの世界へ入り込んでいくのです

さらにその後が有名な「トゥナイト」を歌うシーンです。「ロミオとジュリエット」では有名な「ああロミオ!あなたはどうしてロミオなの?」というシーンに相当します。ここでも時折マリアの父親に声を掛けられ、そのたび現実に戻されながらも、ふたりの世界で愛を歌います

ミュージカルにおけるこういう表現手法は、日本の少女漫画のそれに近いものがあると、わたしは考えています。

歌や踊りは「内面描写」

現実に生きるわたしたちは、往来で歌い出したり踊り出したりはしません。すれ違いざまに、なぜかこぶしをきかせて熱唱しているおじさんであれば、たまに見かけますが……

少女漫画の登場人物は、時間の流れが止まったような空間で、ポエムをそらんじていることがありますが、ミュージカルの歌や踊りの表現も、それに近いものではないでしょうか。

現実世界では、非常階段で大声で愛を歌っていては通報されてしまいます。しかもそこは、トニーと対立するシャーク団のリーダー(ベルナルド)の家でもあります。そう考えれば「トゥナイト」のシーンは、実際に歌っているのではなくイメージ描写であり、本当は小声で語り合っているのでしょうが、ふたりの内面では愛を歌っているのです

突然歌い出す、踊り出すという、ミュージカル独特の表現が好きになれない人はいると思いますが、これらは少女漫画における内面描写と同様のものだと考えて頂ければ、まだ理解しやすいのではないでしょうか。

どうして人は憎しみ合うのか

今回は、少女漫画的な表現の例として「ウェストサイド物語」の一部シーンを取り上げましたが、これは古典的な作品でありながらも、現代に通じる普遍的なテーマや構造により成り立っています。

この作品で描かれる「現実」は、ふたつのグループの荒っぽい抗争なのですが、恋に落ちるふたりを、あたかも「夢の世界」かのように、どこまでも甘酸っぱく描き出しています。

しかし、マリアの兄ベルナルドが、トニーの弟分リフを勢い余って殺してしまい、それを見て激昂したトニーがベルナルドを衝動的に殺してしまうという、ふたりにとってこれ以上にないほど残酷な悲劇が起き、夢見心地な恋の世界シリアスで救いのない現実に突き落とされます。

ふわふわとした世界で、ふたりの微笑ましい姿が楽しそうに描かれているからこそ、そんな幸せなふたりに訪れる突然の悲劇が際立つのです。

この作品が言わんとしていることは「どうして人は憎しみ合うのか」です。戦争紛争殺人事件といったことのみならず、近年ではSNSでの罵り合いが目につくことも多く、それに起因する悲劇も次々と起きています。

そんな現代にこそ改めてご鑑賞頂き、何かを感じてほしい作品です。

最後に劇団四季による2016年公演のPVをご紹介しておきます。


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