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“特別な女の子”とは「戦士として生きること」を選んだ女の子のこと 2019.9.3


 先日、映画『21世紀の女の子』を鑑賞して参りました。ずっと観たいと思いながら機会を逃しつづけ、そうしているうちに公開から月日が経って上映そのものが終了してしまい、今回はそのようなタイミングだったのかしら、と思っていたところに1日特別上映の情報を入手し、映画のあとにトークショーもあるというスペシャルな上映会に前売りチケットを購入して挑むという、わたしにしてはかなり気合を入れてその日を迎えました。


 『21世紀の女の子』は15人の女性監督の8分の短編映画をつなぎあわせ手をつなぐようにひとつの輪を描き、この時代を苦しんだり俯いたり藻掻いたりしながら疾走する「あたらしい女の子」の生が描かれたもので、その女の子たちの痛みはそれが「あたらしい」と人々が感じるところからはじまる、それは昔からさまざまな女の子たちの叫びであったはずのものなのに、いまなおそれを主張することが「あたらしいこと」とされるというところにある、ということを感じさせる作品でした。「ひとつの輪を描き」といったけれど、その「魔法陣」のなかから突如出現する精霊のごときものが、この映画の最後を飾る山戸結希監督の『離ればなれの花々へ』であり、それを「召喚」するために数々の女の子たちの「独白」の輪がつなげられていた、そのようにも感じさせるものでした。そして「終わりの独白」は21世紀の女の子の肖像を描くものとしてこれ以上ないほどに神聖なものだった。


 わたしはその「独白」を五感のすべてで感じながら、ぽろぽろと泣いてしまった。スクリーンのなかの光。外の暗がり。はじめはなにを目にしているのかもわからないまま、圧倒的な神性に意識が重なったとき、そうだよね、やっぱりそうだよね、と涙せずにはいられなかった。あの痛切な祈りを見ることができてよかったと心から感じたし、このタイミングだったから受けとれたものもあって、もっと早ければきっと、きちんと受けとれないものもあったかもしれないと思い、だからこの映画を観たい気持ちがありながら機会を逃しつづけたのはわたしを待っていてくれたからかもしれないとさえ感じたのです。


 ほんとうに余談ではあるけれど、この上映会の日、ちょうどお出かけするまえに友人とかぐやひめの話をしたばかりでした。あの「月に還ったひと」への憧れがごく幼いころから漠然とあって、なんとなく「どこかに還りたい」と思いながら思春期を過ごしたこと、そしてそれは思春期という年齢をとっくに過ぎてからもずっとわたしのなかにあった憧憬だったことは、親しいひとたちに対してはとくに隠してもこなかった。しかしその日どのようなきっかけからかぐやひめの話になったのかは省略するとしても、その名を聞いたとき自分のなかでそのひとへと永くつづいた「憧れ」が不思議なかたちで消失していることを感じ、そしてこういったことを覚えています。

 「月に還ったひとへの憧れみたいなものは自分の変化とともに不思議と消えて、いまは地に根をおろして花のかたちが果実の豊かさになってゆく道を望んではいるけれど、でも月は夢の場所ではないのだと、感じもするの。夢ではなくすべてはここにあると、そう思うの」


 山戸監督の『離ればなれの花々へ』を観ながら、その朝の自身の言葉が映像をこえた神性のなかに浮かび、なにかわたし自身に迫ってくるものがありました。間違ってはいないのだと。もちろん間違いなんてものはないけど。正解もどこにもないように。ただ、わたしが生きるわたしの道として、間違っていないのだと。ほんとうに素晴らしい作品をスクリーンで観ることが叶い、幸せでした。


 そしてこの神性が宿った作品とともに、上映のあとのトークショーでふくだももこ監督が語られた言葉も、わたしにはひとつの「作品」だったとたしかに感じられました。力と光をもつその「作品」を完全なかたちで再現することはできません。わたしはわたしの記憶と受けとったその瞬間の温度、そしておなじ言葉であってもわたしのなかで咀嚼され濾過されて変化するものもあるだろうから。だからここに綴ることはふくだももこ監督そのひとの放った言葉どおりのものではないと思います。しかし「わたしにはこう聞こえた」というその名残らしきものとして記さずにはいられない「作品」だったことを強調しておきたい気持ちがあり、だからここに綴っておくことにします。


 トークショーでふくだ監督に「山戸結希に対する嫉妬はあるか」みたいな質問がむけられました。意地悪としてではなく、たしか山戸監督を特集したユリイカでふくだ監督が彼女に対する嫉妬を原動力にした、みたいな文章があったということで(残念ながらこちらは未読)、そこに端を発する質問だったと思います。それに対してふくだ監督はこのようなことをおっしゃっていました。あくまで「わたしにはこう聞こえた」という記憶の再現としての書き起こしであることを、前提として。


 “同年代にこんなに素晴らしい作品を撮るひとがいるのなら、自分がおなじ職業を目指す意味はどこにあるのか、という自問。その嫉妬の火を燃料にして、山戸結希に恥じないわたしであるために、作品をつくりつづけてきた。この映画は女の子にカメラをもって映画をつくることを怖れないでほしいという気持ちがこめられている。そしてこの映画を観てカメラをもち、映画をつくりたいと思った女の子が目指す姿、憧れとして多くの女の子がその背を追いたいと思うのは山戸結希であると思います。しかし彼女の背を追いかけてきたわたし、わたしたちは、山戸結希には誰もがなれるわけではないことをすでに知っている。その事実から自分自身に反射するさまざまも、わたしは知っています。だからこれから山戸結希を目指して立ちあがった女の子が、山戸結希になれなかったとき、その絶望からカメラを捨て映画に背をむけることのないように祈るものとして、わたしはせめて山戸結希になれなかった女の子たちの選択肢でいなければいけない。山戸結希にはなれなかった。でもふくだももこという選択肢ならば自分にも可能かもしれない。そういう選択肢としてわたしは山戸結希に恥じないわたしでありたいし、そしてわたしたちは山戸結希をひとりにしてはいけない。絶対的な聖域とされることの孤独のなかで彼女がひとりにならぬよう、すこしでも彼女を目指して飛ぶ鳥の一羽でありたい。”


 会場の拍手を耳にしないうちから、わたしも自然と拍手をしていました。これもまた「21世紀の女の子の独白」であるような気がして。そしてその「独白」が自分のなかの「負」をその対象への愛に変えることで聖なるものに昇華したひとの言葉であると感じられて。

 たとえば山戸結希はたしかに「特別な女の子」だけど、その特別さに対して妬みや嫉みから自分を引っぱるのではなく上昇することで、彼女自身も「特別な女の子」になり「21世紀の女の子」のひとりとなって、だからその舞台のうえに立っている、わたしにはそのように感じられたのです。羨望を妬みにするのではなくその孤独とむきあい愛で包むことのできるひとが、「特別な女の子」でないはずがない。


 わたしの話は脱線が多くて、これもその脱線のひとつなのだけど、わたしには『21世紀の女の子』は『セーラームーン』に共通するものがあるとも感じられます。山戸結希はセーラームーン。彼女はその作品の「顔」となるひとであり代表者でもあるけれど、ほかの戦士たちを必要としている。ほかの戦士たちとともに輝くことを願っている。そしてもちろん、ほかの戦士たちが脇役なわけではない。ただ『セーラームーン』という作品における主人公が彼女であるというだけで、ほかの戦士たちも等しく「特別な女の子」で魅力的な存在であることはたしかなこと。「戦士として生きる」ことを決めたときから彼女たちはみんな、特別な女の子。ふくだももこ監督の「独白」は戦士として生きることを決めているからこその言葉であるように、わたしには感じられたのです。

 セーラームーンは愛と自己覚醒のお話だとわたしは思っているのだけど(これもいつかどこかでお話できれば)、21世紀の女の子も愛と戦士たちのお話だとわたしは思いました。孤独を愛で包む花たちのお話。ほんとうに観ることができてよかったし、トークショーで貴重な「独白」を拝聴することが叶ったことに感謝をこめて。


 そしてこの作品と女の子たちが「あたらしい」といわれない時代が訪れることを祈るもののひとりとして。

 “ねえねえ、どんなことを言ってるか、わからない? じゃあ、はっきりと君に伝えることになる、他の女の子に嫉妬しちゃう、普通の女の子になんてなっちゃダメだ! 他の女の子を愛し尽くせるような、特別な女の子になってね! ”――いつの日か必ず生まれる、わたしの娘への手紙/山戸結希 https://i-d.vice.com/jp/article/xwbwdq/letter-for-my-daughter-i-am-going-to-see-one-day-u-ki-yamato    


(2019・9・3)




 (下記は2019年9月3日に、かつて公開していたBLOGに綴ったものです。)



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