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セクメト女神のこと


 「強く万能な者」という意味の名をもつ、エジプトのセクメト女神のこと。

 獅子の頭をもち、頭上には灼熱の太陽を示唆する赤い円盤をのせている姿でよく描かれ、つねに畏怖とともにその“強さ”を語られてきたセクメト女神。

 火のような息を吐き、血が流れる戦を見守り、そしてこの女神のもっともよく知られている役割に疫病神としての顔があって、彼女の怒りが火となり血となりそれが破壊となってあらわれたように、その口から病の風を吹くがために古代エジプトでおそれられたセクメト。

 そしてもちろん「病を生みだした者」は、その病を「治癒できる者」でもあるので、この女神につかえた神官たちは同時に医者としての役目をはたし、病によって覆われた世のなかの暗闇――“夜”と、その病を癒す術をもつ者による光――“朝”をひとりの女神のなかで完結させることで、“セクメト”という名の重みを深めた。

 破壊と再生はいつもおなじ極のプラスとマイナスであり、表裏一体の組みあわせであること。


 なぜこのセクメト女神のことを綴ろうと思ったのかといえば、わたしはエネルギーワークのセッションをしていて、セッションに際してそのたびに女神、宝石、花のオラクルカードからそれぞれ「今回施術するエネルギーがクライアントさんにどのような作用をもたらしますか」という問いへの解をいただき、それをセッション後にメッセージとして書き起こし、電子のお手紙としてお送りするということをセッションを開始した当初より行っているのですが(遠隔の女神のエネルギーワークの際は視えたヴィジョンや届いたメッセージがあればそれを、あるいはエネルギーを流しながらわたし自身が感じたことをおつたえするという手法をとっているので、オラクルカードからのメッセージとはまた異なるものをお送りしています)、ここ最近の流れとしてそのなかで女神のオラクルカードからセクメト女神があらわれることが頻発し、そこになにか個人を超えた世のなか全体のメッセージが秘められているような気がしたからなのでした。


女神のガイダンスオラクルカードから、セクメト


 このオラクルカードのなかでセクメト女神が纏うむらさきは、“高さ”をあらわす色です。その“高さ”は精神性の高さでもあり、ときに位、立場の高さであることもある。いずれにせよ、それは高貴さを暗示する色となります。

 ネガティヴなエネルギーを浄化してくれる色でもあるといわれるのは、その色を纏う者の“高さ”がそれを反射して跳ね返すがゆえなのでしょう。

 このカードのなかでセクメトは、むらさき色のドレスを身に纏い、むらさき色のベールのようなものを頭に浮かべて、獅子を両脇にしたがえた姿で描かれています。そして頭上に太陽と、その青く象られた輪のなかにスカラベがいる。太陽の赤、青い輪――そのふたつの色を足したむらさき。

 獅子はこの女神の“強さ”としてあらわされている象徴。

 セクメトは彼女自身の負の力によって怒りの赤で疫病を世界にばらまくこともできれば、彼女自身の正の力によって鎮静の青で病に治癒をもたらすこともできる。その中立のむらさきを纏って彼女は彼女自身の玉座に存在しています。

 彼女はそのようにみずからの内部にあるものが周囲にもたらす影響が甚大であるからこそ、自分自身の力とつながることをもとめられ、そしてそこで統御された正のパワーこそが彼女の“強さ”でもあること。

 自分のなかに強いエネルギーをもつ者は、そのエネルギーを制御することをもてあますことが現実にも多々あります。それをもてあます日々のなかで自分の“強さ”とつながることを学んでいく、自身のなかにある“強さ”の発露の方法を負の経験というべきものをとおして知ってゆく、そういうことが。

 “強さ”とはネガティヴなものが外からもたらされても自分自身と深くつながっていられること、揺るがない心のことでもあります。それにはむらさきの中立がもとめられることを、この女神は教えてくれる。


 おおきな切り替わり、変容のときは個人レベルでもあたらしいエネルギーとふるいエネルギーがぶつかりあって混沌が生じることがかならずあるもの。そして“揺るがない心”はその混沌のなかで赤に青に揺さぶられて、その揺さぶりをとおして自分自身のむらさきの領域を拡大させ、そうして拡大させたものをみずからの柱としてしっかりと自身のなかに打ち立てることで育ってゆくものであること。


 自分がどのようなエネルギーでいるか、どのようなエネルギーを放っているか。それが自分はもちろん、みずからの周囲にも影響をおよぼすこと。それが自身の世界をつくること。

 だからセクメト女神があらわれるとき、「あなたのなかの低いヴァイブレーションとなっているもの、それがあなた自身のものであれ、あなたの外からもたらされたものであれ、それをわたしが鎮静させ、シフトさせましょう」とつたえてくれているのを感じます。


 セクメト女神の頭上に描かれた、“再生”をつかさどるスカラベ。


 わたしたちが人生のなかで幾度も遭遇する“破壊”――それが誰かとの関係であれ、自分が属する環境であれ、培われてきた価値観であれ、固定されていた物の見方であれ、それが崩れようとするとき、古い殻を脱がなければいけないときなのだという自覚と、それでもそれを脱ぎたくないという抵抗が自身のなかで生じることがある。

 そのようなときセクメトは、みずからに訪れる破壊がいずれスカラベを頭上にのせるため、聖なる再生へむかうための“むらさき色の眼差し”をわたしたちの視点のなかに灯してくれ、真の“強さ”とはどういうものか、そのしるべをあたえてくれる女神であるとわたしは思っています。


 *余談ですが、インド神話、ヒンドゥーの女神にドゥルガーというかたがいて、ドゥルガーとこのセクメトの、性質やエネルギーにかぎりなく相似し、共通するものを感じています。

 ドゥルガー女神も「近寄りがたき者」の名をもち畏怖の対象とされ、赤をつかさどる戦の女神でもあり、“強さ”の意味を教えてくれるかたでもあるからです。そしてどちらの女神も猫科の生き物たちととても親しい関係にある。

 たとえば弁財天とサラスヴァティー、女神イシスと聖母マリアみたいに、おおきな源をおなじところに根ざすよく似た二輪の花のごとき気配を、セクメトとドゥルガーに視ることができるのです。それはどちらも太陽のひかりが刺すように痛いこともあれば、希望の輝きにもなることを教えてくれる女神で、“強さ”のほんとうの意味を投げかけてくれる女神たちでもあります。


セクメト像(松岡美術館)


 松岡美術館で以前お逢いすることが叶った女神セクメトの像。獅子のお顔がすこし欠けてはいるけれど、古代の祭祀としてつくられたものが現存していることが嬉しくて、ひとつにはこの女神の像を目的に美術館を訪れたのは今年の春と夏の狭間のことだったと思います。悠久の時を視てきた“むらさき色の眼差し”に、いまはなにを映しているのでしょうか。




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