11/22 ライフプランとキャリアプラン
これまでの30年、何をしてきたんだろう。
両親に愛され、「愛される」ことしか知らなかった。
(他者を)「愛する」ことを知りもしなかった。
いつまでも気づかないままでいなくて良かったかもしれない。
気づかないでいた方が良かったと思う自分もいる。
でも遅かれ早かれこの時は来たんだと思う。
子供でいられなくなる瞬間が。
なんの拍子なのかわからない。
子供の価値観から大人の価値観へ変わる瞬間が来たのだ。
今までは「大人」に守られてきた=子供でいられた。
なぜそれを選んでいたかはわからない。(愛されることしか知らなかったからかとは思う。)
大人になり、社会へ踏み出した子供は「しらないもの」への恐怖や不安から
「依存」を選択してしまうのだろう。
そうして依存したこの30年。
「愛情深い両親」であったのは確かである。
そこには憎しみであった感情はいまは感謝になりつつある。
愛情深かったからこそ「外部」から「守られて」いた。
私は「怒られ放置されて」いたことがACを引き起こしていると思っていたが、いまでは「愛されて守られて」いたのだと解釈した。
その、守られている間に
ほかの家族では「生きる術」を教えていた両親もいるだろう。
両親は反面教師かもしれない。
守られていた子供は大人になり「まもらない」選択をするかもしれない。
それは「エゴ」なのかと思うところもある。
「三つ子の魂百まで」3歳まででその後の性格が決まるとのこと、、、
私自身の性格はどうなっているのか、わからないわけだw
「守られて」いたから「我」が生まれなかったwww
「守られて」いた30年、それを超え「我」が出来た私はしんどい。
なにもない、のだから。
なにをしようにも「なに」もないのだ。
「我」が考え出したプランで「FPさん」に手伝ってもらったところでお金という概念が楽しくなった。(お金という概念があるから争いがおこり生きづらいと思っていたが、生命を受け取り地に落ちたことを受け入れた先に「捉え方を変えてみた」ということが起こった)
それから「ライフプラン」と「キャリアプラン」について考え始めているわけである。
「誰も教えてくれない」ことを知るのがこんなに難しいなんて。
「考える」ことを頑張り「続け」ていると脳疲労が起きる。
そのへんはへたくそだなあと思う。
「適度」ということができない。
頑張り続けている間はそのほかの物への意識がなくなる。
「頑張りたくない」のかもしれない。
でも頑張っているのも楽しいということが分かった。
何を、頑張る、か。
何を、頑張らない、か。
「思考のコントロール」は人生の充実を図ることができると思う。
「守られ」ている時は「守られている」ことしか知らないから
そのほかの状態になると「べき」がでてくる。
「変化への恐れ」かなと思う。
家は「頑張らないとこ」
家から出ている時は「頑張るところ」
いまはそんな状態。
でもそれでいいと思う。いまはその状態、なのだから。
そんな時もあっていい。つらい時があってもいい。
頭が痛くなってもいいと思う。
生きているんだから「自由」でいいと思う。
「今日の独り言」。
さあ、もう少しだけ脳疲労させますww
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