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青い青い空だよ〜♪雲のない空だよ〜♪サモアの島 常夏だ〜よ〜♪

私は旅が好き。
そして、二番煎じが大嫌い。

今まで40ヵ国近くを旅してきた。
ただ幼少期をヨーロッパで過ごしたこともあり、当時住んでいたドイツやオランダを拠点として、車や短距離フライトで行った場所が多いので、40カ国のうちの大半は割と日本人の中でメジャーなヨーロッパ諸国やモロッコやエジプトが占めている。

大学に入り、いざ自分で旅先を決めるようになってからは、なるべく他の人が行ったことない場所へ行くようになった。就活の点数稼ぎにボランティアで学校を建てに行きがちなカンボジアとか、猫も杓子もすぐに人生観変わりがちなインドは絶対に避けた(インドは社会人になってからスパイスに魅せられて大好きになったが)。

パンコール島、マダガスカル、シベリア鉄道で行くバイカル湖、波照間島。100人に聞いたら99人はピンとこなさそうな場所を選んだ。

そんな私がどこでも住めるとしたら、候補地は2つある。モナコとサモアだ。

中学生の時に「バチカン市国の次に小さいのにめちゃくちゃお金持ち」という漠然とした事実を知り、当時両親が計画していたフランス・イタリア旅行に無理くりモナコに一泊をねじ込んでもらって訪れたのがモナコである。

フランスから車でモナコに入ると、想像していたたとおりの「お金持ちの国」がそこには広がっており、もう国全体が眩くて、煌びやかで、華やかで、うっとりとしてしまった。ホテルでの食事も、初めて本格的なフレンチコースを食べたもので、デザートが3回も(うち1回は今思えばお口直しのソルベだったが)出てきたことにめちゃくちゃ感動した14才の夏だった。

車でモナコを背に、イタリアに向かう道中で「将来、必ずモナコに住もう」と心に誓ったのだった。そしてモナコに住むには1億円規模の資金がないと住めないと知ったのは、将来の仕事どころか大学の進路さえ決まっていない高校2年生の頃だった。

その後も「モナコに住むには最低1億円かぁ…」と時折ふと思い出しては、かと言ってバリバリ稼いでやる!と言うほどの意気込みはなく、絵に描いたようなゆるっとした大学生活を謳歌していた。

そんな大学3年の夏、就活も終わったことだし長期で変わったところに行こう、と思い立ち、地球儀と睨めっこをしてサモアに行くことに決めた。決め手は小学校2年生の音楽の授業で習ったサモア島の歌を思い出したからだ。「青い青い空だよ〜♪雲のない空だよ〜♪サモアの島常夏だ〜よ〜♪」である。

こんなに薄い地球の歩き方が存在したのか、というくらいペラペラ(しかもフィジーがメインで、サモアはトンガとツバルと並んで完全に脇役)のガイドブックだけを頼りに、ニュージーランド経由で入国した。

世界で最も肥満率の高いと言われるサモア人だらけのサモア航空の機内(ちなみにサモア航空は2013年に世界初の体重別運賃を導入した)は、さながら冷凍庫のようにキンキンに冷えていた。

あと1時間も乗っていたら本当に凍っていたに違いない…というほどのダメージを追って入国ゲートを抜けると、夜中の便だと言うのにラバラバ(スカート状の民族衣装)を巻いたサモア人たちが陽気にウクレレを弾きながら歓待してくれた。最初の数日は首都のアピアで過ごしたが、青い空と海を満喫すべく、長距離バスに乗って海辺へ移動した。 

ある程度予想はしていたことではあったが、サモアは沖縄も顔負けの島時間で動いていた。車内はほぼ満席(私以外はみんな巨体なサモア人)のまま、出発時刻であろう時間から悠に1時間は経って、ようやく運転手らしきおじちゃんがやってきた。

運転手はもちろん悪びれた様子などなく、エンジンをかけるなりBGMをガンガンにかけて出発した。バスはもともとは日本を走っていた幼稚園バスを改造したもののようで、すし詰めの巨大サモア人 in 幼稚園バス with 重低音クラブミュージックという忘れられない光景であった。

なんとか出発こそしたものの、本当にこれで4時間も走るのかと不安に思っていたら、わずか20分でバスが停まった。乗客のサモア人たちがこぞって降りるので何事かと思って降りてみると、そこには小さな売店があり、みなめいめいにお菓子やら飲み物を買い込んでいた。このペースだと何時に目的地に着くかも分からなかったので、私も水だけ買い、バスは再び出発した。小さな島国には売店やスーパーも限られた場所にしかないようで、その後は特に休憩なく走り続けた。

20分おきぐらいに現れるバス停ごとにバスは停車し、数人降りては数人乗るという状況が続いていたが、3つ目のバス停で遂に席が足りなくなった。幼稚園バスなので立って乗るようなスペースもなく、どうするのだろうと様子を見ていたら、なんと乗ってきたサモア人たちは当たり前のように、座っているサモア人の膝の上に座ったのだった。

座る方も座られる方も、その周りのサモア人たちも何事もなかったような顔でバスは出発し、更に次のバス停で乗ってきたサモア人は他の座っている乗客の膝の上に座っていく。乗客が増える一方だったので、このまま自分の膝の上にも悠に100kgは超えているサモア人が座ってくることを覚悟したが、流石に華奢なアジア人の膝に座るのは気が引けたのか、私の膝は無事空席のまま目的地に辿り着いた。

バスを降りるとそこはビーチと宿が2軒あるだけで、売店さえなかった。1つ目の宿は満室というので隣の宿に行くと、流暢な英語を喋るオーナーらしき人がちょうど1部屋空きがあると言って案内してくれた。

島にあるいくつかのホテルを除いては、基本的に宿といえば、海沿いに高床式倉庫のように並ぶファレだった。木でできた骨組みに茅葺き屋根を載せて、壁は布や葉でぐるっと覆っただけ。最初の数日は波の音がうるさくてとても寝られやしないのだが、3日もするとすっかり慣れて非常に居心地良く感じる。

海沿いに並ぶファレ。屋根も壁も萱や葉でできている。

部屋には電気もないので(共有スペースは電球がついていた)、日の出とともに目覚め、日が沈むと懐中電灯の灯りで本を読むか寝るしかやることがない。帰国日まではiPhoneはもちろん、時計さえも封印して、3週間毎日「何もしない」ということに集中した。

ある晩、暗闇に包まれたファレの中でふと「モナコで水を1本買うお金で、サモアでは1泊3食付きの生活が送れるのか…」と思った。

14才の夏に魅せられたモナコは、確かにステキでときめいた。もしも唸るほどのお金持ちになったら住むのもいいかもしれない。だけどその何百分の一のお金で、青い青い空の下、高床式倉庫のような部屋で送る何もない暮らしも、モナコに負けず劣らず贅沢であるということを私は知っている。

#どこでも住めるとしたら

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