水のように纏う記号、消費する「誰か」、どうでもいい私。


服は、自分を定義づける記号のひとつ。
自分で自分をコントロールする魔法の手段の一つでもあるし、出会う人に働きかける手段にもなる。
私はこういう世界を生きてて、こんなものを素敵だと思ってる、こういう身体的機能が備わっている(というていで今ここでは過ごしています)のでひとつよろしくと、なにひとつ語らずとも概要を把握してもらえる便利な道具だ。

10代から20代前半はアバズレな感じに憧れていたので、露出多めで強い服装を好んで着はじめた。そしたら制服であれだけ遭遇していた痴漢の類いにはぱったりと合わなくなり、かわりに直球系のナンパが増えた。ズバリいまから乱行しませんかとかもあった。あれでついてく女の子って存在するのかな。とにかくアバズレは痴漢をするような卑怯者にはモテないと分かった。


25歳頃、一瞬清楚なお嬢さん風の服を着るようになったときは、爆発的に紳士遭遇率が上がった。新幹線に乗ればトランクを上の棚に乗せてくれたり、コーヒーを奢ってもらったり、ドアを開けておいてくれる。お嬢さんというのは、世界から丁寧に接してもらえる存在らしいと知った。


小さいパンツな私は、とにかく自分が楽しくなる服をめいっぱい着た。着る服を変えるたびに違う自分になることが出来た。違う自分になれば、違う人生を体験できた。形や素材、スタイル、それを構成したカルチャーに関するボキャブラリーも友達も増えていく。
服は皮膚で読む本のよう。
私は貪るように服を読んだ。
し、たくさん積読した。

ちょうどTOPSHOPやmonkiが原宿に来た頃だったから、積読の山はみるみるうちにうずたかくなってゆく。ファストファッションってマジですごい。こんな可愛くて今まさに着たい服が、これまでの10分の1ほどの値段で買えてしまうんだから。山はそれまでの10倍の速さで育っていった。シーズンごとに原宿に通っては両手に大袋を抱えて帰ってくる。数えきれない記号を浴びるように纏って遊んで、そして何の未練もなく捨てる。


そういうことをしばらく続けた頃に、なんだか水を汲んでは捨てるを繰り返してるようでアホみたいだなぁと気づいた。


ただ単に飽きたんだと思う。
新しい服を着続けるという行為に。
体験したい人生のネタも尽きてきてたんだろう。
なんとなくそんな気はするけど、だからって裸で過ごす訳にもいかないし、新しく纏いたい記号も、振る舞いたいそぶりも思いつかない。

うーんどうするかなぁ。
そうこうしているうちに、私は妊娠した。

デカパンの登場はこのあたり。
今考えれば小さいパンツは、ほぼほぼ崩れかけていた私の、古い自我の最後の砦ってことだったんだろう。

ちなみにデカパンを履き、いたるところで乳首を露出する乳児との日常には、記号を纏って「誰か」になる暇なんざ一秒たりとも、ない。心の余裕も、ない。でも人は裸で過ごす訳にはいかないから服を着ない訳にはいかない。

私はこのとき、大袈裟じゃなく生まれてはじめて「どうでもいい服」を自ら選んで着た。

それはいっそ、裸の方がまだマシだと思えるような体験だった。

つづく

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