○○らしく生きない

私は18歳の時、子供を授かりました。
しかしながら、高校3年生であり、経済的事情や親からの結婚の許可ももらえず、進学のことも考えた末に産んであげることは出来ませんでした。

手術1週間後には私立大学の推薦入試も控えていましたが、不合格。

我が家では毎日朝晩にお経を読む慣習があり、試合や受験などの大きなイベント前にはさらに祈る時間を長くし、信仰が生活の基盤になっていました。
手術が決まってから毎晩のようにお経をあげて、自分の犯した過ちや失敗を悔いては勉強することを繰り返す日々が卒業まで続きました。

子供を産んであげられなかった後悔や自分の愚かさを嘆くなか、それでも大学へいって勉強がしたいと思っていたどうしようもなく馬鹿な自分の無計画さにも打ちひしがれていました。

そのうち自分が頑張って大学に合格することが、産んであげられなかった子への最初の償いになるのではという自分への戒めのような感覚も芽生え、どうしても頑張らなくてはと追い込んでしまっていくようになります。

最後の一般入試の合否も不合格となってしまい、途方にくれているなか、なんとしても大学を諦められない私は追加合格の発表がある2週間後まで毎日10時間以上お経をあげ、10時間勉強し、4時間寝るという、とんでもない生活をはじめます。
親も止める術もなく、私は自分の決めた事は必ずやり通すと決め、2週間続けてしまうわけなのですが、、、。

そのころにはお経を唱えすぎて、呂律も回らなくなり、睡眠不足でフラフラ、休めていないし、食欲もなかったので体重も45kgくらいでとてもガリガリになっていました。

それでも自分にはとても周りの人の意見を聞く余裕もなく、そのまま高校やバイト先に行くようになりますが、明らかに挙動がおかしくなっていたのは覚えています。

そして卒業式を目前に、親戚の家にいたときに倒れてしまいます。

そこからはうる覚えですが、自分は罪を犯したので家族から火炙りにされているという妄想をいだいてしまい、支離滅裂で攻撃的な言動をとってしまっていました。

どうしようもなくなった家族は私のことを精神科へ連れて行き、強制的に入院するよう同意をさせました。

家族にとって私はなんなの?という悲しみと、精神科に入院したことへのショックと、卒業式に出られない不満も合わさって、パニックに近い状態になりました。

閉鎖病棟のなかでも隔離室というのがあるのですが、最初の2〜3週間はそこに入れられることになります。

誰でも最初からそこに入れられたらメンタルボロボロになるわってくらいひどいです。

まず、病室というより独房のような作りで、コンクリート打ちっぱなしの部屋にベットとトイレが併設されています。
入り口の問い面にはガラス張りの壁が設置され、その反対側が通路になっています。
患者の様子を医師が定期的にみにくるための通路だと思うのですが、入院してる側からするとなにかの実験でもされているんじゃないかという恐怖心でいっぱいになりました。
暴れるとすぐに手足をベットに拘束され、さらに暴れるとベットが撤去され、床に寝ることになります。
さまざま強い精神薬も投与されていたと思います。
さすがに怖くて逃げ出したくなり、当時ハマってみていたプリズンブレイクを思い出してトイレの上にあった電球の設置部分から脱獄しようと、その設備を破壊してしまったこともあります。

そのくらい怖かったです。

そしてさらに衝撃だったのが、全ての部屋に監視カメラが設置されていたこと。
これは隔離室からでるときに、看護師がモニターを指差して笑ってるのが見えてしまったことで気付きました。

数日して、やはり私はこのことも許せなくなり、再び隔離室へ行くことになります。

3月上旬に入院し、退院できたのは5月になっていました。

そして自分には統合失調症という病名がついていました。

帰ってきた時はとても安堵しましたが、それからまた地獄のように苦しい日々が続きました。
罪の意識に日々苛まれ、自分などこの世にいる価値はないと思い何度も自殺を試みたこともあります。

自分がこれまで生きていた中で最も辛かった出来事だったと思います。
自分の信じてきたことは何だったのか、、、
自分はもう障害者としてしか生きられないのか、、、
自分の罪は簡単には償いきれないけれど、でも法律によって守られている現実。

高校生までとても頑張ってきた私、しかしその努力も一瞬で掻き消されてしまうのかと、、心に大きな穴が空いたんだと思います。
そして全ての原因は自分にあるため、自分を責める以外に術もなく、どんどんと自己に対する自信も失っていきました。
それでも生きている限り償うのであれば、やはり生きるために働かないと、という思いもあり、保健所のデイケアサービスに通ったり、手帳を取得したり、社会生活ができるように家族も支えてくれました。

そのときに出会ったのが遺跡の仕事でした。
歴史好きもあったので、仕事にも馴染むことができ、土に触れて体を動かし石器や土器を見つけた時の事は今でも良い経験だったと思います。
少しずつ心も良くなっていき、自分を責めることばかりだった毎日が仕事に向き合う事で、自分を責めることも少なくなっていきました。

仕事を頑張るうちに、本来の業務よりもさらに難しい報告書整理の仕事にも携わる機会を与えてもらったことで、自分に自信がもてるようになりました。(ほんとに自己肯定感とか皆無になっていましたので、やっと自信持てた感じです)

それから私は考えました。
このまま遺跡の仕事を続けるのは凄く楽しいけど、将来的に自分がずっと働いていけるのだろうか?
そんな事も思いながら報告書整理の作業でIllustratorを使った図面のトレースをすることがありました。
簡単なトレースでしたが、私にはとても楽しくIllustratorというソフトにとても魅力を感じました。
現場納期が近づく中、私はもっとイラストレーターについて学んでデザインの勉強をしてみたいなという願望が芽生え始め、デザインを身につけたら、将来への不安も少なくなるかなと考えるようになります。
現場納期を終え、仕事を辞めて、デザインの専門学校へ入学します。

結果的にこの判断はとてもプラスだったと思いますし、親はとても反対しましたが、無理を押し切って通って良かったと思っています。

その後もさまざまに苦難に直面しますが、その度に私が肝に銘じていることがあります。

それは病人らしくしない
ということです。

療養生活や入院生活を経験すると、どうしても病人マインドみたいなものになってしまい、そこから抜けきれず負のスパイラルに堕ちてしまいがちになります。
そこから社会に出て働くのはさらに厳しい負担をかけることになります。
なぜなら、いつでも逃げられるからです。
そしてそこで逃げた途端、逃げたことに対する負の感情が沸き起こり、また再び負のスパイラルに突入。
病人らしくするというのは、障害を持っているから、病があって難しいから失敗しても、どんなにクオリティが低くても、どんなに迷惑をかけても許されるだろうと思いながら生きる事だと仮定しています。

私はいま世間からみれば社会的弱者中の弱者のポジションであることは間違いないでしょう。

だけど、障害者であることやシングルマザーであることや、がん患者であるからといって、全てを悲観していませんし、障害者や病であることも自分の個性の一部として認識するようにしています。

しかし世間の人は進んで病をしたいとは思いませんし、障害者に対しても偏見の目があるのは否めません。
だけど、私は31でこのように病を持ってしまっていますし、障害者手帳もあります。
では、そんな私が病気があるから、障害もあるから、シングルマザーだからと言う理由で生きることを辞められるでしょうか?
そんな事は出来ませんよ。
社会は生きる方にしか選択肢を与えません。
もちろん子供もいるので、育てていかねばなりません。
ではどうしましょう。
自殺しようとしても止められるし、生きるにもとっても生きづらい、、、そうなると全ての私を守るガードや鎧を取り払っていくしかないなと思うようになります。

どこにいても何をしても、それは私という人間なんじゃないかなって。

いまブログを書いてる私は、病気をしたことを哀れんでほしくて書いているわけではないんです。
障害者であることに、同情してほしいわけでもないんです。
シングルマザーになって、一人で全て行うことの大変さを嘆いているわけでもないんです。

生きている全ての人が、いずれ病気もするし、老いていくことは明確な真理です。
そして、「普通」という概念はあっても「普通」という人生はないのだと気づくんです。

だからその一つの特性(自分の役割)や症状(自分の状態)に偏ったままのフィルターで世界を生き続けると、いづれ心に歪みがくるんです。

母親らしくいることにも疲れましたので、好きなファッションをして、ネイルも自分でするようにしたり、自分がやっていると楽しくて穏やかになれることをするようにしようと心がけるようになりました。
病人らしく振る舞うこともやめました。
申し訳なさそうにしたり、自分は能力がないと思いこんだりして諦めても、マイナスにしかならないんですもん。

偉そうに語ってしまいすいません。
しかし、心をズタズタに裂かれるように辛い経験をしたら、まず何かしようとする前にのんびりと立ち止まる時間も必要なのかもしれません。
私はそのまま突き進んで結局さらに深い闇へ堕ちていきました。

10年以上かかって、やっと話せるようになりましたが、やはり辛いときは休むことができないと壊れてしまいます。

本当にそう思う。

だから困難に直面している人をみると放って置けないし、辛い心でも時間が経って気がつく色んなことがあるし、生きていれば子どもも産めるお母さんになって楽しいことも出来る様になるよって伝えたかったんです。

また長くなってしまいましたが、読んでくださってありがとうございます。

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