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何故撮るのか?について。

私は自称「スナップシューター」です。
他にも「旅写真家」とか「花写真家」とかの側面も持っていますが、基本は「スナップ写真を撮る人」です。
…他にも福祉関係の仕事をする人、という、二次的な肩書きも持っていますがwww。

さて、一口にスナップと言っても、被写体は多数あります。
目に見えるものすべて、といっても過言ではない。
その中でも私は「建築物と、その周囲の風景・風物」を撮っています。
理由は「好きだから」です。

よく「風景写真」と言いますが、通常それは「自然風景写真」を指します。
自然の風景を美しく撮影する…王道であり、多くの人が納得する、間違いの無い分野です。

私は自分の撮っている写真も「風景写真」だと思っています。
ただ、それは一見「何を撮っているかがわからない」写真であり、大方の人が戸惑うものです。

撮影者本人には、明確な意図は有るのです。
私は元来の「臍曲がり」です。
綺麗な風景を見て感動をしないわけではありませんが…美しい、良いな、と思う風景には大きく写欲が動きません。

私が好きな「風景」は、主に人間が作り出した風景です。
それも意図的に作り出したものは寧ろ嫌いな方で、あくまでも
「潜在的に」作り「出される」
風景に強力な写欲を抱きます。
偶然出来たもの、現れたもの、と言えば良いでしょうか。

「風化」という言葉があります。
とても好きな言葉で、風のように消えてなくなるという事、そしてその途上、ということだと思います。

あらゆる万物は皆いつかは消えて無くなります。
時間に、自然に…その他様々な事由と理由によって、この世のすべては風化します。
人間も同じです。
そして人間は、己が命を燃やし続ける中で、その有様を見続けて行きます。

桜の花が咲き、散りゆくのを好むのも。
紅葉が紅く染まりながら、やがて小さく茶化ながら落ちていくのを愛しむことも。
特に日本人は、そういった感覚に鋭敏です。

それと同じように
「今まさに散らんとする」風景と言うものが、街中にも有るのです。
人が与えた役割を終えて、あとはただ風に吹かれて削られていくだけのモノたち。
それらがたまらなく愛しい。

自然の絶景が、侵食などの働きによって作られていくように、規模こそ小さいけれど、時間と風に吹かれる事で作り出された風景は、私が今まで生きてきた道の「道標」です。
それらを逃すことなく、記録して残す。
私の想いを振りかけ、写真という媒体の中に。

懐古主義と言わば言え。
私は確かに(!)瞬間を捉えている。
ブレッソンやフリードランダー等と同じ道を歩いている。

スナップは私の生き様であり、私の人生の一片なのです。


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