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標準レンズが好きな理由

標準(50ミリレンズ…以下標準レンズ)レンズを使い出すようになってからというもの、必要を感じることが無い以外は、ズームレンズを持ち出したく無くなっている。

何処かに車で出かけて、来たことがない場所で撮影するとする。
こう言った場合は、迷わずに標準「ズームレンズ」を選択するだろう。
どんな被写体に会うか分からないから、無難な線を行くわけだ。

記録をしていくにはやはりズームが良い。
けれどただ「写真を撮りたい」だけが理由だと、MFTに標準レンズ、それにiPhoneだけで済ませてしまうことが多くなってきた。
重いからヤダ、というのも理由だし、以前に書いたように、絞りの効果が楽しみやすいのもそうだが…それだけの理由ではないな、とも考えていた。

「似ているのだ」…そう気付いた。
自分の性格に似ているのだ。

広い視野を持って世を見聞はしたいけど、生き方という程では無かった。
荒野に歩み出ていく生き方を選んだ事は今までに一度も無い。

華やかに生きたいと思った事もない。
バブル期に青春を過ごしてはいたけれど、何処か嘘臭く感じていたし、またその恩恵にあずかる事も殆ど無かったというのが実情だった。

広角レンズのように貪欲に野に出る事も、望遠レンズのように、きれいな背景ボケに彩られた生き方も自分には出来なかった。
運不運もあったけど、もしそれらの影響が薄かったとしても、自分はどちらも選ばなかったと思う。
もちろん、ズームのように生き方を可変出来るほど器用でも無かった。
目の前の仕事や雑事をこなし、自分の体との折り合いをつけつつ日々生きるだけで精一杯だった。

若かった時、望遠にも広角にもならない標準レンズは嫌いだった。
標準ズームレンズがボディとセット販売となった時に、揚々とした気分で「高価な方の」ズームを付けて、キヤノンのA-1を購入した。
どこかでプロに近づけた気がしたが、やがてあまり撮らなくなった。

そこから長い長い迷走が始まる。
クラカメに走ったり、コンデジに凝ったりもした。
しかし不思議とレンズは軽視していて、安い標準ズームを専ら着けて使っていた。
あれこれと選んでは売り買いを繰り返してきた。
自分でも呆れるほどに。

ずっと長い間、標準レンズを買うという事を無意識に避けてきた。
それは自分という人間と向き合って生きるという事をしたくなかったから…かも知れない。

α55用に標準レンズを買い、改めて「一本勝負」を行なってみてまず感じたのは
「思うよりも楽しめる」事だった。

望遠や広角「らしく」は撮れるけれど、望遠や広角の代わりになるかと言えば、それは望むべくも無い。
しかしそれは「背伸びをしない良さ」であり、急がない、焦らない瞬間の積み重ねでもあった。

自分の中に、ただ写真を撮り続けていた頃の…何もどうということも無く、愛する人々を撮っては満足していた頃の思い出が甦る。
理由などなく、ただ写す事が大事だった頃、必要であったのは一本のレンズとボディだけだった。

長い時間をかけ、再び「写真する事」に辿り着いた。
自分を赦すこと、諦めていくことで初めて得られるものがある。
自分と良く似た性格を持つレンズを片手にして、紆余曲折のカメラ沼をそろそろ後にする時が来たのかも知れない。




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