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さだまさしの歌に見る平和(その二)

ロシアのウクライナへの侵攻は、未だ収まることを知らない。

今回の侵攻で世界が多大なバッシングの声をあげている理由は、その始まりが「先制攻撃であり、正当な理由なき侵攻」だからだ。
過去の歴史の上での理由があったとしても、軍を侵攻させ、民間人の施設を攻撃し、多数の死者と甚大な被害を与え続ける理由にはならない。
これは人道として許され得ぬ行為だ。
主義主張というものを、人道は越えた場所にある。
またそうでなければいけないのだ。

「とてもちいさなまち」は、さだの作品の中でも珠玉の一品と言える曲だろう。
大きく何かを歌い上げるわけでなく、描かれることは、ふるさとの小さな町から都会へと出ていく青年が、恋人であろう人に語るように綴る胸の内である。

やはり、ここにも「戦争」という言葉は出てこない。
…ただ、歌詞を見るにつけ、曲を聞くにつけ思うことがある。
それは「なぜ、ここまで切ないのか」という疑問である。

サビの部分で何度も繰り返し、青年は謝る。
恋人と別れて都会に行くことは、確かに辛いことかも知れないが…それにしてもあまりにも切実だ。
戻れない、とも言っている…そこまでの強い気持ちで出立せねばならないこととは、果たして一体何だというのだろうか。

そして「すべてを裏切って出ていくこと」とも。
裏切る…恋人よりも使命をとることは、長い目で見るなら裏切り、というには厳しすぎる。
人は其々に思いがあり、その達成の為に生きていることは普遍なことだろうに。

…「裏切り」の、本当の意味とは何だろう。
首都キーウで、街を見捨てず反攻を行う人々の中には、きっと故郷に大事な人を残して居る人もいるだろう。
その人たちの事を思う内に、脳裏に「とてもちいさなまち」が流れてきた。

故郷とは、生まれた場所であり、育った場所であると同時に、いつか肉体が役目を終えたときに戻る場所でもあると思う。
人は皆どこかで、そのことを感じ、違う場所で暮らしているときでも、それは心の支えに自然となっていると思うのだ。

故郷を捨て、愛する人たちと別れていくこと…それがもし今生の別れであるとすれば、肉体を持つ身として会うことはもう許されない。
その悲しみは幾ばくだろうか。

若者が、その残り多くの命を賭し、戦火の中を行く。
たくさんの命を奪い、やがて自らも奪われることになるであろう場所へ向かうことを、犠牲だとか、ましてや勇猛だとか、そんな言葉で誤魔化してしまうことは、生への冒涜以外の何物でも無いだろう。

反戦は平和ボケであるとか、綺麗事であると抜かす輩がいる。
そういう輩こそ平和ボケなのだ、と私は応える。
本当の戦争の悲惨さというものは、数字に表れるものではない。
体と心に消えない傷、癒えない傷を負わされた人の心深く、死ぬまで残り続ける重い残渣なのだ。

他人に見えないと言うことと、無かったことというのは天地ほどに違う。
見えないことを良いことに、屁理屈で現実をねじ曲げることは暴力でしかない。

平和は金と力で揃えるものじゃなく、日常の安楽の中で見出だすべき、一束の炎である。
暮らしの継続こそ、実は平和の正体なのだ。
生きていくことが、暮らし続けることこそが平和というものなのだ。






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