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#103 節目、折り目

節目というのは予定されていてやってくるものと
自分で決めて折り目をつけるものがあって、
だけど突然降ってくることもある。

単調な日々がどんな風に終わるのか。以前のわたしはのんびり想像して待ち、やがて訪れるその時を緩慢に受け容れるタイプの人なんだと思っていた。でも明らかにそのゆったりとした流れが変わったタイミングがあった。
それは “出産“ だったと思う。
それからもうすぐ7年が経とうとしているけど、なんて濃い時間だっただろうとため息が出る。望む望まないに関わらずどうしても外の要因にぶんぶんと振り回されてなんとかやっている感じがずっと続いているのだから、時々なんだかどっと老けそうな気さえする。みんなこんなことをして日々平然と生活を営んでいるのか!と急にリスペクトが湧いたり、なんでわたしだけこんな目に…と1人腐ったり忙しい。平穏でつまらないほど単調な人生に憧れるけれど。選んでないのに真逆の現実を直走っている気がするのはどうしてだろうか。

《影響の輪》の話をしたい。
自分が意図して影響を及ぼすことができる範囲での事柄に対してのみ思考を使い、またさらにそこに感情を乗せるか考える。輪の外にある物事は騒いだところでどのみち進むのだから、意識しない。いつもこれができればどんなにか楽だろう。或いは輪の中にあると思い込んでいたことが、時が経って知らない間にぽつっと外へ出ていることもある。その度にわたしは怒ったり泣いたり、喜んだり切なくなったりするのだろう(そしてまた老ける)。

のんびり未来を想像していた頃のわたしなら「そんなドラマみたいなことはうちでは起きないよ」と一蹴してたようなあれもこれもが、影響の輪の外からズカズカと土足でやってくる。こうやって来るのか…とフィクションをおさらいするように眼前に立ち現れる。現実は小説より奇なりというのはこのことか。


子供の時分、親がやっていた「なんかすごい」こと
ーー例えば車で友達の家を行き来したり、ふらりと知らない店に入ったり
家の売買契約や交通事故の示談交渉、冠婚葬祭
まるで予定されていたかのように自分もなぞって震えながらクリアする。親もあの時こうだったのだろうかと思い巡らす。いや、彼らの方がずっとスマートだったと思う事も多い。
やりたくないことはたくさんこれからも降って来るんだろう。
世界は思ったよりも凄いスピードで進んでいて、ゆったりと暮らしているつもりでも何かの拍子に巻き込まれたり、触れてしまって弾き飛ばされそうになることもあるんだろう。

一つとして同じ1年がなかったように、きっとこの先も目を白黒させながら平然を装っていくしかない日々が待っているんだと思うとちょっと気が重いけれど、「つらくなったら帰る」場所を準備しておけば来たる「それ」が訪れた時も輪の中にいる自分を見失わずにおられるかも?

こんなにお天気がいいのに
どうしたって心が傾いてするすると降りてしまう日は、きっと小さな折り目なんだろう。明日、明後日、もっと先に必ず出口があって今はただそこへ向かって進んでいるんだと小さく自分を励まして
鏡の前でにっこりしてから息子を迎えに行くことにする。
大丈夫、だいじょうぶ。


るる

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