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#65 余白の芸術、有限と無限

李禹煥展に行きました。
東京の後は安藤忠雄氏建築の兵庫県立美術館で開催されると聞き、学生の頃訪れた直島の李禹煥美術館を思い出し「これは行かなくては」と勇んで参りました。ただただ好きなのです。

「一瞬の出会い 余白の響き 無限の広がり」

余白が美しいと、その余白の終わりが曖昧で
作品の中に静寂と途絶えることのない流れのようなものを感じるのだなと。

「創造」は自然な状態をスタートにするとある種の「破壊的な行為」だということを言われていて、ふむ確かに、作品の一部になるものは作家によって都合よく/美しく/異なる形へ変化させられて取り込まれているのかと妙に納得させられます。
具体の表現や創造がそもそも一つの門を介して自然と相対して存在しているということ、その両方を同時に感じられる作品が彼の世界なのか。彼が様々な形態の作品を通して、それを可視化しようと試みた軌跡を追う感じがしてとても興味深かったです。

《沈黙》だったかな

美術や芸術に関してはど素人ですが、感性が刺激されて静かな興奮の波に包まれる体験をしました。もっとセンスも学もあり造詣の深い方達はどんな風に感じ、考えるのだろう。
下手な言葉を並べるのも気が引けてしまって、この感情をなかなか落とし込むことができないでいました。でも多分ずっと頭のどこかで考えていたので書いてみることにしました。

《風と共に》

彼の表現の中で、特に絵画には無垢な子供の描く絵に似たものを感じずにはいられませんでした。何かを形どって描こうとしているというよりは、その動作の跡に注視して描かれているというか。本当は意図して彼の中にある完成形を目指して緻密に構成されているのだと思いますが、それを見る人には感じさせない自然に近い流れを持っているから不思議と既視感を湧かせるような。いや、既知感かな。
時間の流れを表現した《線より》と《点より》のシリーズが特にそんな感じがして好きです。このシリーズでは何も描かれていないように見える部分にも淡い色が満遍なく置かれていたりしたのが、それより後の《対話》シリーズではキャンバスの布そのままだったり。“そこに無いもの“ の表現のむづかしさと奥行きに頭の中の世界が本当に無限に拡がるようでした。
屏風のように立てられた大きなキャンバスの縁に、サインと共に「こっちが上だよ」と言いたげな矢印が書かれていたのにはふふっとなってしまいました。そうだよね、わたしだったら運んできた時わからなくなっちゃいそう。
大きな岩やロープが無造作に置かれている(風の)作品にもなんとも言えないバランスがあり、それ自体は止まっているのに周りの空気は脈を打って流れ続けているような生命感が漂うので、だんだん擬人化して観ている自分に気がつきました。

《線より》


滞在時間は2時間ほどでした。音声ガイドも良くて何度も聞いてしまった。
終始息子が触りそうにするので阻止すべく、別な緊張感もありましたが(笑)この美術館という完璧な建築は、それに呼応するように配置された作品の数々が一瞬の出会いを無限に響かせるのに十分すぎる器の役目を果たしているよなぁと1人感動しながら外に出たり入ったりしながら練り歩いてやっと帰りました。
息子は暑がってヒートテック一枚でウロウロしてました。元気ね。

《無限の糸》これは屋外。螺旋階段の上から垂れる糸

学生の頃からずっと、読書感想文や美術鑑賞のレポートの類は本当に苦手だったわたし。言葉が圧倒的に足りないし、内容が好きじゃない時も「面白くなかったです」とも書けない謎の圧が苦手で。えーいと適当に書いてました。
もういい大人だし、美味しかったものをお勧めしたくなるのと同じ感覚で「今ここでやってる○○展良かったよー!何がってね…..  」とこの後に続く簡潔なお勧めコメントをさらっと言える素敵な人とわたしはいい友達になれると思っています。(わたしは言えない…!!!)

るる


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