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曇り硝子の眼鏡(キナリ読書フェス/『世界は贈与でできている』読書感想文)

わたしはとにかく甘えることが下手くそだ。

トラブルに見舞われても、一声『ひとりでは抱えきれないので相談させてください』と言えない性分だ。
問題なく物事が進んでいるときはいいとして、不測の事態にはめっぽう弱い。
結果を出せないのは自分が至らないせいだという強迫観念に急かされて、仕事に支障をきたしたこともたびたびあった。
だから気負いなく他者に甘えている人を見て、とんでもなく羨ましかった。僻みすら通り越して、いいなあと思うことが何度もあったのだ。

昔から自分の真ん中に『しっかりしなくてはならない』という楔があって、それが外れないまま生きている。
幼少期から身長が高く(中学2年生で168cmだったことを覚えている)、そのせいか『年齢の割に大人びて見える』というラベルを常に貼られて生きてきた。そしてそれに応えなければならないと漠然と感じていた。
勉強も運動もそれなりに出来たために利発だと思われていた。自力で研鑽するということが当たり前になっていたし、それなりにそつなくこなしていたと思う。家族に病人がいたこともあり、自分で出来ることは自分でという認識を常に持ち合わせていた。
要するにずっといい子でいざるを得なかった。いつからそう思ったのか思い出せないくらいに。

そう、思い出せない。
どうして甘え下手になったのかわからない。わからないから直しようがない。

前置きはそろそろやめにして。
今回読んだ『世界は贈与でできている』で、そんなもやもやを部分的にしろ形にすることが出来たと思う。
どうやって甘えたらいいのかわからなくなっている過去の自分に向けてこれを書くつもりだし、同じような境遇の人に届いてほんの少しでも楽になってもらえたら、それはとっても嬉しいことだ。


交換という束縛

『世界は贈与でできている』にはお気に入りのフレーズがたくさんあるけれど、その中でハッとしたもののひとつがこれだ。

助けてあげる。で、あなたは私に何をしてくれるの?

もちろんそんなことを面と向かって言ったことも言われたこともない。
ただ、言外にそういうプレッシャーを感じていたことが多かった。誰にも言われてもいないのに、自分でそのように受け止めてしまっていた。心臓がギュッと小さくなる。つらい。

これはあらゆる人間関係にも当てはまるのかもしれない、と思った。
家族に対しては『しっかりしたいい子』でいなければと考えていたし、会社には『仕事が出来る手のかからない社員』、友達には『頼りがいがある自立心がある人』と捉えて欲しいと考えていた。

もっと言えばそうではない自分には居場所は与えられないと思っていた。

何だこれ、交換の論理だったのか。
というのを『世界は贈与でできている』を読んだときにアアアアと頭を抱えた。腑に落ち過ぎたから。
そういう打算的な考え、意外と相手に伝わってるな? とも思った。
まあそれはそうだ、人間そんなに馬鹿じゃない。
その結果として孤立してしまう。報酬欲しさに努力している人に親愛を抱くわけもない。わかる。とてもよくわかる。

どうしてそういう思考に陥ったのか、と鑑みると、恐らく家族関係が影響しているのだと思う。
第3章において触れられている箇所でヘドバン並みに首肯していたくらいに、わたしも所謂毒親を持った人間のひとりだ。家族であれば迷惑や面倒をかけていい、それを受け入れるべきだ。だって家族だから。そういう欺瞞に長年苦しめられ続けていた。
「家族だろうが嫌なことやられたら嫌だよ!!」と言えるようになったのはここ最近で、ずっと「わたしの心が狭いからそう感じてしまうのだ」と悩んでいたのが正直なところ。家族を嫌いになり切れないから尚の事。
以前ある人に「親御さんを悪い人だとは思えない」と言われたことがあって、じゃあ悪い人でなければどうして自分はそれを歓迎出来ないのか? であればわたしが悪い人なのでは? という思考の流れを辿ってしまっていた。

目の前が曇って道が見えない。
どうやって歩けばいいかわからない。
そう思っていたし、それは簡単にはなくならないと思う。

という前提で、本書を読んだ。

他者の善意はときとして呪いとなる。
そう、僕らがつながりに疲れ果てるのは、相手が嫌な奴だからではありません。
「いい人」だから疲れ果てるのです。
いや、正確には「いい人だと偽る人」からのコミュニケーションによって疲れ果てるのです。

ここ、読んでじわっと心臓の裏側があったかくなった。
自分が「嫌だ」と思った気持ちを肯定してもらえたように思えたから。
疲れ果てて苦しかった思いが、決して悪ゆえのものではないのだと言ってもらえた気がしたから。

しかもこの呪いにかかったのは、目の前の愛の不在を合理化しようとしたからだと書いてあってひっくり返った。
つまり盛大な辻褄合わせか。そりゃ整合性取れなくてしんどいわ。
愛の手触りを知っているからだという表現が何とも優しくて、心にふわっと残っている。

だから、呪いにかかるのは、愛と知性をきちんと備えていることの証でもあるのです。

ここでもやはり、自分が考え続けている姿勢は決して間違いではなかったと思っていいのかな、いいのかもしれないな。そんな風に感じられた。

極めつけはここ。

なぜ子供はいい子であろうとするのか?
それが、親の愛という贈与に対する、子供なりの精一杯の返礼だからです。
交換するものを持たない子供は「親にとっての理想の子供」であろうとしてしまう。お返しをしないと、愛を与えられないのではないかという、あまりに切ない不安に駆られるからです。

おなかがいたい……(キリキリ)
そうね、確かにそうね、と自分の中の子供がしきりに頷いている。
親は子供はいつまで経っても子供だという言い回しがあるけれど、結局それは大人になりきれていないという状態を言い表すのかもしれない。
だって真っ当に生きていられれば大人同士として健全な関係を築くことが出来るだろうから。解釈があっていないかもしれないけれど。

だから具体的にどうすればいいという話ではなく、自分の抱えていたもやもやに輪郭が与えられた心地だった。
これってすごい。五里霧中にあって、少し前が見渡せるようになったから。

それと同時に、もしかしたらわたしは感情の受け取り方・認知が歪んでいる面もあるのかもしれないと感じた。

家族はさておき、友人知人でわたしを気にかけてくれる人は少なからずいる。弱音を吐いた時にそっと耳を傾けてくれる人がいる。
ここにいるよ、届いているよ、そんな体勢でいてくれることってすごく素敵なことなのではないか。
だからこそそんな贈与を受け止めて咀嚼出来るようになれたらいい。その相手に直接返すのではなく、まずは真直ぐに受け取る。わたしがいい子であるからではなく、わたしがわたしという人間だからと、疑心暗鬼にならずに安心して受け取れるように。
それって『甘える』ことのひとつの形なのかもしれない。
そんな風に思えたのは、かたくなになっていた自分の心がほぐれたからのように思えてならない。


眼鏡越しの風景

「大人になると目が曇ってしまう」と言った大人に、子供は「曇ったらはあっとして拭けばいいの」と言った――という、知人の文章で大好きなフレーズがある。
透明になった眼鏡の向こうで、鮮明な景色が見えるだろうか。

世界は思いのほか優しいのかもしれない。
もう少し柔く受け止めても怖くないのかもしれない。
そうして安心して想像力を働かせられたら、素直に『贈与』を受け取ることが出来るのかもしれない。世界の解像度が上がるってそういうことかなぁと。
結果としてそうなっていても自覚は伴わないかもしれないけれど。
気が付いた時にあたたかいものがあって、それを嬉しいと思える自分でいたいなぁと思うのだ。ちゃんと受け止めているよと感じ、自分でも何かしら手渡すことが出来ていたら尚いい。
節度と倫理と知性を携え、受け止めるための手を伸ばしていけたらきっと幸せ。

拙いながらも文章を書いている環境なので、ひよっこアンシング・ヒーローとして活動を続けていけたらとも思う。

最後にただの感想を付け加えると、純粋に読み物としても面白かった。わたしは伏線回収が大好きな人間なので、つまり言語ゲームとはこういうものだ、などと一本の糸に繋がっていく爽快感、単純にめちゃくちゃ楽しい。だからここに着地するのか~! と膝を打ち過ぎて割れそう。

いい読書体験に感謝を。
岸田奈美さん、近内悠太さん、ありがとうございました!


おまけ:
タイトルからして「ん? これ贈与税の本か?」と思ったりしなかっただろうか。わたしは思った。帯を見て違うかもしれないと気付いた。遅。
思った以上に長い文章になったけれど、ここは岸田さんリスペクトということにしてもらえると幸い。

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