『イギリス手書き文字の歴史』

ぼくのほしい物リストから買っていただいた本を紹介する記事第2弾です。前回に引き続きプレゼントしてくださった小野信也さん、本当にありがとうございます!

今回の本は、Sir Edward Maunde Thompson の The History of English Handwriting AD 700-1400 というものです。もともと1899年に書かれた文章を Gerish Gray という人が編集して、図版も大量に追加されて2008年に出版されたものです。

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アルファベットの手書き文字の書体について知りたいと思ったのは、それが現在の英語の綴りにも影響を与えているからです。

この記事の続きをまだ書けていないのですが、1225年頃以降、m, n, v, w の前後の /u/ が、しばしば u ではなく o と書かれていたことが知られています。現代英語で、cover や month の o が just や much と同じく /ʌ/ と発音されるのは、これらがともに /u/ > /ʌ/ という同じ音変化を遂げたからです。

u が避けられた理由としては、cuver や munth では縦棒 (minim) が並びすぎて読みにくかったから、と説明されます。けれどもぼくらが親しんでいるアルファベットの書体で見ても、特に読みにくくないじゃないかと思ってしまいます。綴り字のルールを崩してまで u を避けなければならなかった理由を理解するには、当時の人々がどういう字を書いていたかを知る必要がある、と思いました。

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この本では、8世紀頃から14世紀頃にわたってイギリスで使われた書体を、大きく4つに分類して紹介しています。百聞は一見にしかずということで、まずはそれぞれの例を一つずつお見せしましょう。

まずは、大陸から伝わったアンシャル体 (uncial) で8世紀前半に書かれた『ヴェスパシアン詩編』(Vespasian Psalter)。ラテン語訳旧約聖書『詩編』の本文がアンシャル体で書かれています。(後に加えられた古英語による行間注釈は、後述のインシュラー・ミナスキュール体です。)

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https://www.bl.uk/collection-items/vespasian-psalter

ほぼ同じ7世紀末に、アイルランドから伝わったハーフ・アンシャル体 (half-uncial) で書かれた『リンディスファーンの福音書』(Lindisfarne Gospels)。美しい装飾も有名です。新約聖書の4福音書のラテン語訳の本文がハーフ・アンシャル体で書かれています。(こちらも古英語による行間注釈は、後述のインシュラー・ミナスキュール体で後に加筆されたものです。)

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https://www.bl.uk/collection-items/lindisfarne-gospels

続いて、イギリス独自のインシュラー・ミナスキュール体 (insular minuscule) で8世紀前半に書かれた、ベーダ (Beda, Bede) の『英国民教会史』(Historia ecclesiastica gentis Anglorum)。イギリス史の重要な史料で、邦訳も出ています。

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https://cudl.lib.cam.ac.uk/view/MS-KK-00005-00016/20

最後に、大陸から伝わったカロリング・ミナスキュール体 (Carolingian minuscule) で10世紀後半に書かれた『ラムゼイ詩編』(Ramsey Psalter) です。この例自体は Thompson が挙げているものではありませんが、1900年代にエドワード・ジョンストン (Edward Johnston) がファウンデーショナル体という書体の元とした写本としても有名だそうです。

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https://www.bl.uk/collection-items/ramsey-psalter

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言うまでもなく、同じ書体でも、時代や地域や用途などによって様々な違いがあります。この本ではたくさんの例を挙げつつ、それぞれの特徴を解説しています。

その説明の仕方は必ずしも分かりやすいものではないのですが、大英図書館で実際に日々写本を手にして仕事をしていた著者だからこその、古い文書に対する愛や畏敬が、文章の端々から感じ取れます。

アルファベット文化圏においても文字そのものが審美的な対象になりうるということに、新鮮な驚きを感じました。beautiful, wonderful と絶賛される字がある一方で、手厳しくけなされる字もあります(特に末尾で触れられている15世紀は全体として a period of decadance で、語るべきこともないとのこと)。筆者の眼差しは、個々の文字 (letters) の形だけではなく、それらの間からにじみ出る character と呼ばれる「名状しがたい表情」(undefinable expression) にまで及びます。feeling や sentiment といった語を連発しながら文字について語る様子に、あたかも東洋の文章の翻訳であるかのような印象も受けました。

いや、そんなことを言ったら文化的な傲りだと批判されてしまうことでしょう。ぼくがたまたま日本と中国と韓国における書道というものについてほんの少し知っているというだけで、それ以外の地域でも、文字は決してただの無味乾燥な記号ではなかったのでしょう。例えばアンシャル体とハーフ・アンシャル体が宣教師によってキリスト教と一緒に伝わったとき、また例えばノルマン人のイギリス征服に伴いノルマン人の写字生がイギリスに渡ってカロリング・ミナスキュール体を広めていったとき、さまざまな思いを込めて、文字が、文章が、書かれていたに違いありません。

今年第2版が出た Michael Weiss の Outline of the Historical and Comparative Grammar of Latin という本の序文で、Antoine Meillet と Joseph Vendryes の il faut ... habituer les jeunes linguistes à se reporter toujours aux textes(若い言語学者たちを、常にテクストへ立ち返るということに慣れさせなければならない)という言葉が引用されていました。ぼくは言語学者ではありませんが、言語学者がきれいにまとめあげたものばかりに触れていると、どうしても単語の形式的な変化だけを追いがちになります。アマチュアの戯れとしてある程度仕方がない面はあるにしても、それが本当は邪道であること、一つ一つの単語が無数の文章や無数の会話の中で使われてきたこと、そしてそれらのうちでわずかに残っているものに基づいて言語の歴史についての我々の知見があることを、さまざまな表情をした手書きの文字たちが思い出させてくれました。

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さて、冒頭に挙げた u の読みにくさの謎については、残念ながらこの本は答えてくれませんでした。ただし、図版の一つに、たしかに m や n や u が、ほとんど縦棒を並べただけにしか見えないものがありました。

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http://www.bl.uk/catalogues/illuminatedmanuscripts/record.asp?MSID=7160

1254年に作られた聖書ということで、ちょうど m, n, v, w に隣接する /u/ が o と書かれるようになった時期とも合致します。そして Thompson はカロリング・ミナスキュール体として一緒くたにしていますが、一般にはこれは、カロリング・ミナスキュール体から発達したゴシック体 (Gothic) と呼ばれるもののようです。

というわけでこのあたりをさらに突き詰めればいいということが分かりましたが、今回は一旦ここまでにしておきます。

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なお、この本を読むにあたって、邦訳が出ている本もいくつか参考にしました。

スタン・ナイト『西洋書体の歴史』は、ギリシャ・ローマの碑文からルネサンス時代のヒューマニスト体まで、各書体について分かりやすく説明しています。図版も大きくてとても見やすいです。

デイヴィッド・ハリス『もっと知りたいカリグラフィー』は、実際にペンを使って書く人のための手引書で、書体ごとに A から Z までそれぞれの文字のお手本が筆順つきで載っています。

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最後に、紹介されていた中でぼくが(ある意味)一番好きな字を載せておきます。12世紀後半にオルム (Orm) という僧が書いた『オルムルム』(Ormulum) という作品です。ノルマン・コンクエスト以後も大陸の影響を免れた例として挙げられていますが、元気のいいのびのびとした字で、見るたびになんだか笑ってしまいます。『オルムルム』は、短母音の後の子音を forr, mann のように重ねることで、長母音と短母音を区別する独自の綴り字法を使っていることでも有名です。

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https://iiif.bodleian.ox.ac.uk/iiif/viewer/90a06f70-880a-4b5b-bd30-798710afff11

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ぼくのnoteでは、主に比較言語学の観点から、語学学習に有意義なヒントを提供することを目指しています。

道は遠いですが、ゆっくりとでも学び続けていきたいと思っております。今回プレゼントしてくださった小野信也さんをはじめ、応援してくださる方々に心から感謝申し上げます。

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