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【交換小説】#味付け 1

結局、母さんは幸せな人だったんだわ、と久枝は思った。

夜勤の看護師たちの交代も終わり、明かりの抑えられた待合は、昼間の混雑の想像もつかないほど冷たく静まり返っていた。兄と妹に連絡を済ませた久枝は、硬い椅子に腰かけて、壁に張り出された「入院手続きに必要なもの」という色褪せた紙をぼんやり眺めていた。入所していた施設で体調を崩し、病院に移ってから一週間も経っていなかった。八十八という年齢を考えると何が起こっても不思議はなかったが、長かった介護生活を思うと、この一週間の出来事は何かの冗談のように呆気なかった。

母は昔から享楽的な人だった。我慢を知らず、自分の感情に正直で、幼子のように悪気がなかった。工場の資金繰りが厳しく、父が苦労しているのを知っているくせに、売上金の入った封筒からいくらか抜き取ると、悪びれもせず自分の美容代に充てるような人だった。子供たちに対する愛情にも際限がなく、欲しがるものは何でも買い与え、べたべたに甘やかした。そんな性格を反映するかのように料理の味付けも甘かった。その癖はぼけだしてからますますひどくなり、しまいには米にも味噌汁にも山ほど砂糖をかけるようになってしまった。

でもあれは止めなくてよかったんだわ、と久枝は思った。やりたいようにやってれば案外どうやったって幸せに生きていけるんだわ。久枝はかさついた自分の手に目を落とした。

「あの」という声に久枝は振り向いた。

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