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それにしても遠い。どこに行くにも遠い。まず宮崎市が遠い。紛れもなく隣の市なのだが、文京区と豊島区が隣の区というのとは訳が違う。飯田橋駅にあった「区界ホール」なんて感覚はここにはない。あるのは断絶、もう完膚なきまでの断絶である。

山ルートと海ルート、道はその二つである。他に選択肢はない。そして海ルートは荒天時にはいとも容易く閉ざされてしまう。どちらのルートも景色は絶景、と言えば聞こえはいいが要するに人の住めるところではない。山のある景色とか海のある景色などという生易しいものではなく、もうただただ山であり海であって、こちらを飲み込んでしまいそうにのさばっているそれら山や海の隙間を「すんませーん」と言いながら通り抜けさせてもらうしかないという感じなのだ。

確かにこの風景は一見に値する。事実、特に海の方ではバイカーや旅行者の車を多く見かけるし、一度は走ってみたいルートだということもよく理解できる。以前LAを訪れた際、車でマリブに連れて行ってもらったことがあったが、太平洋を挟んで向かい合うこれら両者の景色はよく似ていたし、迫力という意味ではこちらの方が数段勝っているとさえ思った。だがささやかな用足しにさえその道を使わざるを得ない立場からすると、運転中ずっと「まじか……」という言葉しか出ない。印象の過剰、迫力の過剰。何しろチャールトン・ヘストンが膝から落ちる『猿の惑星』のクライマックスシーン(マリブの海岸で撮影されている)が最初から最後まで続いているのだ。地元の人がこれにどう折り合いをつけているのか、未だ知り合いはいないので謎なのだが、ちょっとこれは本当に一人ひとり捕まえて尋ねてみたいほどだ。

そんなこんなでどうにかこうにか宮崎市にたどり着くわけだが、当然ながらその頃には息も絶え絶えである。「スタバ……」とか「無印……」とか日頃ふんわりと抱いていた欲など消え失せている。世界の滅亡を目の当たりにした後では無印で欲しいものなんて別にない。スタバで啜る飲み物に対しても、これ結局牛乳じゃねえかとしか思えない(私はコーヒーを飲まないので、スタバで注文するのは長年キャラメルスチーマー一択である)。そうなのだ。この距離感は私の中にあった虚像をめりめりと剥がしていく。こうでなくてはと思っていたことやこれはいいと思っていたものなどがことごとく「それ単なる思い込みだったんじゃないの?」という問いに晒されていく。

これまでの自分を形作っていた要素を削るこの作業はそれなりにつらいものである。いったいこれを続けていくと私はどうなってしまうのだろうか。何か少しでも残るのだろうか。それとも全部削られ粉となって断絶の中に消え失せてしまうのだろうか。それもあり得ると思えてしまうほど、この距離感や風景の威容には説得力がある。もちろん、ここにいるとそれをより強く感じるというだけで、結局はどこにいようが同じことなのかもしれないが、改めて大変なところに来てしまったものだ。

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