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【交換小説】#味付け 3

目を閉じていても、窓の外がだんだん明るくなってくるのが分かる。薄く目を開くと、仕事帰りの人たちをぎっしり詰め込んだ下りの在来線が一瞬の幻のように飛び去っていく。こんな忙しいところ息が詰まっちゃうわ、そんな風に突き放して言えればいいけれど、この明るさが懐かしいのは、やっぱり私はここで育ったから。いくら反発しても否定しても、やっぱり母さんの子だからだわね。

何が最後だったかって、思い出してもしょうがない。あの時よ、確か、姉さんに頼まれてコップ買って行って、でも母さんは私のこと和江叔母さんだと思っていて、違うよ、私はあなたの娘の良子ですと何度言っても分かっていたかどうか。でもそんなこと、思い出してもしょうがない。

母さんはずるい。本当にずるい。死んだ人に腹を立てても仕方ないのは分かってる。でも、本当に母さんらしいずるさで最後まで逃げ切ったものだわ、何も覚えていないと言ってしまえばそれっきり誰にも本当のことは分かりようがないんだものね。死んでしまえばそれ以上誰からも問いただされることはないんだものね。

もう昔のことなんだから。兄さんや姉さんならきっとそう言う。私と違って出来のいい兄さんと姉さん。でも私は今でもあの時母さんが言ったことを思い出すと、腹が立って悔しくて、落ち着いてなんかいられない。でもそれはたぶん私が一番母さんに似てるからよ。紛れもない、母さんの娘だからよ。

終点東京。アナウンスが始まる。降りる準備をしなければ。

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