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もしかしたらそんな気もする、という程度のあやふやな違和感は、そんなの気にすることないよ、そういう時はこうするものだよ、というやり方によって流され忘れられていく。それは私たちが編み出した優しさであり慰めで、本質的な解決からは程遠いものだけど、その心地よさを得たいがために、人は自分自身にしか結論の出しようのないことも誰かに聞いてほしがったりする。

たぶん私ももういろんなことを忘れてしまっている。むしろ積極的にいろんなことを忘れたのだと思う。凹凸はできるだけ滑らかにしておいたほうが楽だから。込み入った状況は簡単な言葉で置き換えたほうが分かりやすいから。忘れてしまえば言いたいこともなくなっていく。そうしてできた空白は感じのいい微笑で埋められる。

この、noteという形式で何かを言うのはやはり限界があると感じている。私が言いたいことはこれ!というカミングアウトは往々にして演技が混じるから。私は何かを言いたいんじゃなくて何かを思い出したいだけだから。誰かに聞いてほしいんじゃなくて自分が確かめたいだけだから。

例えば、あの穏やかで感じのいい田舎のおじさんにしか見えないフォークナーはどうしてあんなにリアルに老嬢の性欲を描くことができたのか。どうしてあそこまで精神遅滞者の精神に立ち入ることができたのか。たぶんそれについてはフォークナー自身も何とも言えないのだろう。それが言えたら、あれだけの複雑で多層的な語りを通じて表現する必要などそもそもない。

そんなふうに考えていくと、私もいろんなことを忘れてしまっているけれど、決してそれは消えたわけでも解決されたわけでもない、と感じる。と言うよりも、気にしないことに慣れただけで、本当は忘れているわけでもない。ただ直視することをためらっているだけだ。

それにしても、ユダヤ人って本当に大変な人たちだなと思う。もちろん作品を通じて知るに過ぎないけれど、ラリー・デイヴィッドにせよウディ・アレンにせよもちろんカフカにせよ、どれもこれもユダヤ人の話って、こういう時はこうするものだよ、という慣例的なやり方を欠いている。緩衝部分を欠いたむき出しの違和感を一人で背負って、他人に慰めてもらうこともできず、七転八倒しながら対処法を探っている。こういう時はこういう言葉で表現する、という型がないから、必然的に膨大な言葉を使って一からその状態を説明することになるし、その説明は完全なる自前の説明だから、多数の人の納得できる常識からはかけ離れた、不細工でバランスの悪い、細部の肥大や歪みを反映したものになりがちだ(ウディ・アレンが嫁の連れ子と再婚した背景にもそういう理屈があるのだろうと想像する)。その必死さは滑稽としか言いようがないのだけれど、本人たちは思いつきでふざけたことを言っているのではなく、自分自身を賭け、悲壮とさえいえるほど真剣だから、そこには哀感も漂う。

たぶんこの傾向は、故郷を追われホロコーストを生き延びた(そしてそれこそがホロコーストの対象とされた原因なのではないかとも思うが)民族性に深く根差すもので、島国でずっと米作ってたであろう人々の末裔である私が真似をしようと思ってできることではない。それ以上に、真似なんかしたくない。そんな苦難は進んで味わうものではない。ただ、ユダヤ人が民族的運命として背負わされている「お前は何者か」という命題の苛烈さを見ていると、その彼岸にある自分のことも考えずにはいられない。

まあとにかくは何か書いてみることだろうな。

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