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落としましたよ

人生最大の修羅場を経験し、感受性が根こそぎ吹き飛ばされた頃。
人の多い繁華街で、年配の女性が落とし物をした。
見ていた私は、あ、と思うだけだった。
一人が素早く、落とした物を拾って女性を追いかけ、別の一人も追いかけながら、
「落としましたよ!」
と声をかけた。
周囲の人も、心配そうに見送っている。
最初の一人が拾わなければ、別の人が拾って追いかけただろう。
その一瞬生まれた、善意に満ちた連帯感が、私を人間の世界へ引き戻してくれたような気がする。

今朝、通勤中に、小さな子供を後ろの座席に乗せた自転車のママさんが、何かを落としたのを見た。

颯爽と通り過ぎる自転車に、
「何か落としたよ!」
と何度も声をかける老人の声は届かない。

私は、道路に落ちた使い捨てのマスクに一瞬だけ視線を落として、何も気づかないふりで信号待ちした。


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