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もうそれだけでロマンチック

2024.06.18

すっかり習慣になったお手洗いの「七十二候」カレンダーを眺めていて、つい先日までは「腐草為蛍」という時期だったので、蛍を見に行こうと決めた。

仕事終わりの夜、四条河原町で相方と美味しいご飯を食べた後、わたしたちは下鴨神社へ向かった、その数時間前に友人が蛍を撮影した動画をSNSにあげていた、静かな夜に繊細な蛍の光、30代にもかかわらず、古風な初夏の景色に期待が膨らむ、そんなうきうきな足で新葵橋でバスを降りて、徒歩で神社へ向かった。
大通りとはいえ、平日の夜に歩いているひとはほとんどいない、にもかかわらず、糺の森へやってくると、数人の話し声が奥の鳥居の方角から聞こえる、はぁ、昼夜関係なくここには人が集まるんやな、とため息、しかしそれ以前に森がとても明るい、なぜ、本殿まで向かう森の道に、思った以上にたくさんの電灯が点いていたのだ、もっと暗い森を歩けると期待していた、ここですでに、ちょっとがっかり。

そもそも夜に糺の森を訪れようと思うこと自体、この周辺に7年近く住んでいて初めてのことだった、「蛍がでる」ということはここに住む前から聞いていたけれど、近い場所ほど人間は興味をなくしてしまう生き物で、わたしもそのひとり、だから全然行かなかった、それでも行きたくなったのは、まぁカレンダーのこともあるけれど、季節に寄り添った言葉の意味を、もう少し肌で感じてみたかったのかもしれない。

正直、「腐草為蛍」という言葉をみて強く惹かれたのは「蛍」よりも「腐草」のほうだった。どうして腐った草から蛍?そもそも腐った草って?、わたしは蛍にマイナスなイメージをそこまで持っていなかったので、ここまで正反対の意味のものを並べることに、とても興味を持った。本当は本で語源を調べたかったのだけれど、とりあえずインターネットで調べてみた、するとこう書いてあった。

「古くは、暑さに蒸れて腐った草や竹の根が、蛍になると信じられていたそうです」

なんとも豊かで、そして前向きな発想だと思う、でも実際蛍が生まれる場所って、清らかな水辺なのではないか、そこに腐った草があるなんてことあるのか、とまたさらに疑問が湧く、そう考えているうちに、相方が「あっ」と言って指を差した、その先に一匹の蛍が木の影に隠れて小さく光を瞬かせていた、蛍、うわ、きれい、静かな水音と、先客の話し声がミスマッチングだけど、蛍は彼らから姿を隠すように、そしてわたしたちにはそっとその居場所を教えてくれるかのように、体から光を放っていた。

森ではその日、4匹の蛍を見つけた、葉の先端で何度も瞬くもの、ひとり静かに宙を舞うもの、水辺から動かないもの、色々いた、ほんとのところ、もっとみられると期待していたのだけれど、それでも人工的な光にも負けず、光を伴って生きる蛍たちの姿は、みていて惚れ惚れする。

蛍に満足した帰り道、相方が自転車につけているライトを、上空に向かって照らした、星が見えない代わりに、わたしたちの何倍も背の高い木々の葉がみえた、ライトを照らしているのに、そこに緑色はどこにもなかった、あるのは空の色に染まりながら模様を刻む葉の群れだった、美しい一方で怖かった、たとえこんなに電灯がついていても、この場所にひとりで来るのはとてもできない、だから本当は、蛍をみることは、ふだんひとり行動をしがちなわたしが、人を誘ってまでやりたい、ある意味貴重な一大イベントだったのだ。

神社をでた後、最近建てられた高級マンションにも人工的な水路があって、オレンジ色の電灯の近くで一匹、また蛍をみかけた、さっきの森でみた蛍よりも近くで見つめられた、思えば自分の体が光って、それで求愛するなんて、もうそれだけでロマンチック、わたしには永久にできない行為で憧れてしまう、そんな阿呆な人間を横目に、コンクリートと並行した草むらのなかで、蛍は黙って愛を求めていた。

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