見出し画像

長女が産まれた頃のこと 3

長くなってすみません。続きです。

本来理想とされる分娩後の生活では、産婦は授乳以外の生活行動(家事とか)は1ヶ月は避ける、もしくは1ヶ月のうちに少しずつ始めるように。とされている。

産婦は一見普通に見えても、体全体の細胞が目まぐるしい程急ピッチでの別の状態に戻ろうとするムーブが起きているからだ。

経膣分娩なら、陰部周辺の創の修復作業。帝王切開なら開腹創の修復作業。そして両方共、子宮復古という名前の子宮内外の修復作業が行われている。また、妊娠中に約一年かけて安定していたホルモンバランスが一気に崩れ、今度は授乳期というホルモンバランスモードに切り替えているところだ。ホルモンバランスが変わると、脳内や他内臓機能も合わせて変化する。

ただでさえ、出産という非日常から始まる育児の開始期間に、この細やかなチューニングのように、体がモードを切り替えている時は産婦には余計なことをさせてはいけないし、絶対的に安静にすべきなのだ。

はい。理想論で綺麗事なのは百も承知です。でも、願わくば全ての産婦さんはそうあってほしい。心身のバランスを保つのはこれから始まる長い長い育児生活にとって重要だから。経験者談です。私にはこんなことは出来なかったから、他の方はそうあってほしいと思うのです。

長女が入院している中、特に異常はなかった私は、自宅に帰ってきた。元々里帰りする気もなかったが、ホルモンバランスのせいで物凄く尖りまくっていて、実母と話す気にはならなかった。暮らす気ではない。話すのも嫌だった。実母は、簡単に言うと、過干渉で不愉快な物言いをするタイプだ。基本的には自己中心的だし、性格が悪い。人を褒めるのを聞いたことがない。今回の入院も面会謝絶にしたのに来院してきて揉めるハメになった。その時の私に害しかなかった実母は、これを機に私に年単位で絶縁されるが、まぁそれはともかく。

帝王切開の傷も痛いのに、毎日3時間ごとに搾乳して片道一時間かかる病院に届けて…をすると、やっぱり心身調子がおかしくなってくる。元々出なかった母乳は、やはりまったく増えなかったし、日が経つにつれ、泣きながら搾乳していることが増えていった。

NICUの入り口に冷蔵庫があるのだが、朝そこを開けるのが憂鬱だった。他の子のお母さんの母乳がたくさん入っているのだ。しかも、1パックの量も多い。いつまで経っても少ししか母乳が出ない自分が恥ずかしくて、毎回かなり落ち込んでいた。

勿論家事もままならない。そもそも病院に行ったらほぼ一日そこにいるのだ。家事ができるわけがない。

年末になる頃、あまりに母乳が出ない私に特別にやってもらっていた産科外来での乳房マッサージが年始まで休業であることを知り、近所の助産院に行ってみることにした。

これがマズかった。そこの先生は、とても親切で優しく、寡黙だが熱心で、私の事情を聞くと即座に『貴方は2日に1回通って出すようにしましょう』と言った。え?マジすか?

自分の首を絞めたと思った。

今までだって、通院費用は馬鹿にならない。当時私はパートしかしておらず、育児休業給付金くらいしか収入がなかった。病院までの定期買おうかと思っていた矢先にこの一言。

助産院の母乳マッサージは1回三千円。これを週に3、4回。月にしたら結構な額だ。

長女の退院はまだまだ先。ただでさえ心折れかけているのに、この上まだ母乳頑張らないとならないのか?お金をかけても??

答えはイエスしかなかった。

先生の熱意と優しさに絆されたのもある。でもやっぱり一番は長女の栄養確保のためだった。

こうして私は朝9時に家を出て、助産院で母乳マッサージを受けて、朝食を駅前のドトールで食べ、バスに揺られて一時間の病院に着いて、長女の面会と搾乳をして15時まで過ごす。というのを繰り返した。

今思うと、本当によくやった。偉い。誰かに表彰されたい。

そんな中で、長女の動脈管が閉じずに手術をするしかないと聞かされた。

どうにか薬を使って閉じれそういやもう少しとかやってるうちに体が育って本格的に循環動態に影響をきたしだした。この頃の長女は、いつもチアノーゼだったし、サチュレーションも低かった。

それでも、お触り許可が出て、少しだけ触れるようになった彼女の手は柔らかくて、軽く握り返してくれる。

生きて、頑張っている。

頑張っている君が苦しいなら、やるしかない。

そうは思ったが、それでもまだ片手サイズの赤ちゃんの手術に慄かない親なんていないだろう。

そんな中で、エヌの看護師さんに母乳ストックがもうないんで…みたいなことを告げられて、私は、この日初めて病院で泣いた。

うまくいかないなぁ。頑張ってるのになぁ。

一度そう思ったら、もう涙が止まらなかった。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?